2012年2月29日水曜日


いま政治家のなすべきこと


野田佳彦首相は消費増税に突き進んでおられます。国民に税負担を強いる前にどうしても政治家はやるべきことがあるように私には思えます。それは小沢一郎氏が指摘されるように統治機構を根本から変えて無駄をなくすことです。中央集権体制から地域主権体制へ徹底的に変革することです。
 現在、存在する行政の無駄という無駄の問題を解決しようとせずに、歳入が不十分であるという理由で、安易に消費増税を持ち出すのはどうも私には納得がいきません。行政の無駄の徹底的な排除が先です。
多くの日本人は、家計の収入が減ると、衣食住その他すべての面で、否が応でも徹底的な無駄の排除に取り組まざるを得ません。つらくても徹底的に無駄という無駄をなくすことから始めます。
  同様に国家だって危難にあるとき、まず目に見える無駄という無駄を徹底的に排除することから取り組むのは当然のことだと思う。行政の二重三重の無駄をこのまま維持させるために消費税を上げることを多くの国民は許可しないと思う。
政治家はまず全力で行政の無駄の排除に取り組んで欲しい。無駄排除のための統治機構の抜本的改革に取り組んでほしい。それが多くの国民の希望だと私は思う。


2012年2月25日土曜日

大学のガラパゴス化


本日、茂木健一郎先生が「大学のガラパゴス化」についての所見をブログ『茂木健一郎 クオリア日記』の中で公開され、多くの読者にコメントをリクエストされていました。そこで私も恥ずかしながら、茂木先生の文章を何度か読んだ上で、自分の意見をまとめてみました。


私は19年前に大学を卒業したのだが、どうも日本では、中学・高校と比較して、大学の構内に、教育の最高機関で学術研究のために真剣に教えを請い、授けるという緊張感、空気が薄い気がする。それは、難関大学入試合格まで必死に学習してきた新入生にも、大学生活に徐々に慣れてきた上級生にも言えるように思う。実は、教えを授ける大学の先生方の中にもそういったなんとなくぬるい空気はあったように思う。高校までと比べ、キャンパス内には、教えを受ける側にも教えを授ける側にも、うまく言葉で表現できないが、本来学びの場に必要な望ましい緊張感が欠如していたと思う。もちろんそんな中でも真面目に学習に取り組んでいた生徒もいたし、茂木先生のように受講者を夢中にさせてくれる講義をして下さる教授や准教授、講師や非常勤講師の先生もいらっしゃった。ただ大学構内を流れる全体の空気が、そこまで真剣になって学習しなくても、入学さえすれば、卒業はそれほど難しくないですよと言う、日本でだけ通用する、独特なぬるい空気が流れていた。ごくたまに国内の他大学を覗いてもやはりその空気は流れていた。少なくとも私にはそう映った。当時、社会(就職先となる多くの企業)が我武者羅になって勉学に励む学生を文系の生徒たちに必ずしも求めていなかったという事情もあるのかもしれない。大学入試の在り方や大学教育の在り方(早期に始まりしばしば長期に及ぶ就職活動も含む)に真剣に手を付けてこなかった過去のつけが今まわってきているのだと思う。


2012年2月23日木曜日

インストラクターの人気の秘密


一昨昨日、久方ぶりにフィットネスクラブのあるコーチのプログラムレッスン(プールレッスン)に参加させてもらった。肉離れする前(18ヶ月前)と同様、女性インストラクターの人気は抜群に高く定員いっぱいの満員御礼だった。(彼女のレッスンは、スタジオレッスン、プールレッスンともに集客力が人並外れて高く、しばしば定員オーバーで参加出来ない会員が現れる)相変わらずレッスンのperformancehighだった。小生は右ふくらはぎの状態がまだ不十分なので、コーチの許可を得たうえで、両足固定して上半身のみの運動をした。通常、脚を使えずに運動量が激減すると、運動に集中・没頭出来ないので、レッスン満足度、充実度はうんと減る。周りが盛り上がっていても運動しない分こちらの頭は冷静なので周囲の熱気とのギャップで白けてしまうこともある。その点、彼女のレッスンは、老若男女を問わず、多くの会員さんが定員に達する前に参加資格を得ようと競うだけあって、小生の汗も碌にかけない上半身のみの運動でもありがたいことに満喫することが出来た。なぜこれほど多くの会員さんが彼女のレッスンに我先にと駆けつけるのだろうか。人気の秘密は何なのだろうか。
私なりに分析してみた。

1つ目は、スタジオプログラムにせよ、プールプログラムにせよ、パフォーマンスの高さだ。限られた時間を内容面で充実させ、皆に楽しんでもらおうと事前にプログラムを研究し尽くしている。レッスン内容から十分な事前準備と心の余裕(自信)を持って臨んでいることが伝わってくる。

2つ目は、会員さんの顔ぶれや動き、様子に合わせて、臨機応変・柔軟にレッスン内容を咄嗟に組み替えている点だ。

3つ目は、彼女自身がダンスや身体を動かすことが大好きであり、傍から見てもそのことが自然に伝わってくる点が挙げられる。

4つ目は、会員さんとの付かず離れずの快適・適度の距離だ。

5つ目。これは何より大事な人気の秘訣と思われるのだが、レッスン参加者が大勢いるにも関わらず、どうも彼女はひとりひとりの会員さんが『見えている』ということである。
レッスン中の会員さんの表情や身体の動きから、参加者ひとりひとりの満足度を冷静に鋭い感性で感知しているのだ。

6つ目は、個々のプログラムレッスンは、いろいろ細かい制約や規則があるのであろうが、彼女は、規則に必要以上に縛られることなく、規則は本来何のためにあるのかを理解している点だ。一番大切なことはプログラムの規則に捕われることではない。
自分の頭で状況を瞬時に分析・判断して、顧客の顔ぶれを見ながら、顧客満足を最優先にして、独自の判断で、レッスン内容を微調整・変更する柔軟さと行動力だ。


どんな仕事でもある程度共通して言えることであろうが、決められた規則通りに動くということは実は簡単で楽ちんだったりする。
想定外の各種事態へのインストラクターの咄嗟の対応で、実はそのインストラクターが普段どれだけ舞踊等を研究しているか、努力鍛錬しているか、舞踊の適性が高いか、先天的な素質があるか、才能が高いかが現れたりする。
インストラクターが考えた振付けが次にどのように展開していくかは、流れを見ればある程度は予想が付く。
けれども、会員の『こころ』が見えている賢明なインストラクターは、意外なところで変化をつけて動きを変えたり、敢えて動きを変えなかったりして、こちらの予想通りには動いてくれない。
次にインストラクターがどう動くのか半分は予想が付くけれども、残りの半分は予想が付かない。
油断していると、一人だけ動きに取り残されてしまう。だから没頭する。
尊敬する茂木健一郎先生がよく指摘される『偶有性』だ。
そのような偶有性が存在するとき、我々はどきどきわくわくする。
小生の場合、そのような時、「今この瞬間生きている」と実感する。
偶然その時その場に居合わせた会員とインストラクターとで紡ぎ出す、一回限りの内容・パフォーマンスだから、我々はぞくぞくする。
以上のような理由で、私が通う某フィットネスクラブの、某インストラクターは、会員さんに高い支持を得、高い人気があるのだろうと考えるに至った。


2012年2月21日火曜日

下山の思想


先月24日に、五木寛之先生の著書「下山の思想」を読み終えて、ツイッターにてつぶやいた文章をブログ上でも載せておきます。


『五木寛之先生の新著「下山の思想」(幻冬舎新書)を読了した。下山するという行為は、マイナスでもあきらめでもなく、次に登山するために必要不可欠な行為で、極めて前向きな過程なのだという思想に強く納得した。山登りは、山頂まで登ってそのあと安全無事に山麓まで戻ってきて初めて完了ですからね。』


2012年2月20日月曜日


映画「Time」を見た感想


昨日、上映中の「Time」を鑑賞した。個人個人の所有する命の残り時間を、物と交換したり、人に分け与えたり、人に恵んでもらったりする発想に新鮮さを感じ、時間の持つ意味と価値を深く考えさせられた。一部の特権的な富裕層が長く生き存えるため、多数の貧困層の命の残余時間を搾取・収奪する構図は、不条理かつ不平等な側面を持つ実社会の姿を見ているようで恐ろしかった。監督・脚本家は、現実社会の制度の欠陥、富の分配の不公平、既成勢力が守ろうとする秩序の矛盾を訴えたかったのであろう。格差社会の問題の本質は、ひとりひとりの能力・実力といったファクターを無視して、所属組織や肩書き・地位に不健全なまでの価値を置き、真に公平な競争が行われていないことだと思う。


2012年2月19日日曜日

“My inner thoughts”  『深く思うこと』


言われると当たり前のことではあるけれど、どうしても気になって仕方ない、現在わたしの心を大きく占めているテーマがある。それは『こころ』の持つ特徴、意味、可能性、由来、行先だ。『こころ』はその形を見ることも、その声を聴くことも、その匂いを嗅ぐことも、その味を確かめることも、それを触ることも出来はしない。しかし確実に『こころ』というものはこの世に存在する。
脳が生み出す『こころ』というものの存在に思いを致すとき、その偉大さ、崇高さ、意味、重要性に圧倒、驚愕、感動するとともに、ただただどこまでも深く深く考えずにはいられない。
たまたまツイッターで普段気になっていた事柄のひとつを英文・日本文で綴ったのがきっかけで、そのことに気付かされた。
気付きの元の文章です。




Never can man see one of the most precious things. That’s right. It’s “heart.” 
Never can we see other people’s hearts,only we can imagine their hearts.


とても大切だけど決して私たちが見ることが出来ないものがある。そう、それは『こころ』だ。
我々は他人の心の中を見ることが出来ない。ただ相手の心の内を想像してみるだけだ。




2012年2月16日木曜日


英語を読む快適なスピードとは


最近頓に疑問に思うことがある。
それは学校現場もしくは幾つかの英語教育番組で、英語指導者が英語学習者に向けて、教科書その他テキスト英文を読む際、実際の場面ではありえないくらい超スロースピードで読むことがよくあることだ。
もちろんいま流行りの速読・超速読が、読むスピードとしては最適だなどと言いたいわけではない。どちらかというと初心者への速すぎる英文読みは反対だ。
では何を言いたいのか。
それは、英語の初心者に対してあたかもそれが当然であるかのごとく、あまりにもゆっくりとしたスピードで英文を読んで聴かせることのマイナス点だ。
超スロースピードの英文読みは逆効果だと思う。
わたしたちが普段、母語である日本語で、新聞や書物を読む際のことを考えてみてほしい。
あるまとまった内容の文章を読もうとする場合、ある一定の心地よいと感じるスピードで読むことで我々は理解の程度が深まっているのではないだろうか。
丁寧にと文章を文節ごとに区切り、不自然な間を開け、敢えてゆっくりスピードで読んでみると、円滑さが損なわれるので、英文を意味のあるひとまとまりとしてセットで理解することが出来ない。
自然に、流れるように塊として一気に自分のものとすることを妨げてしまう。
少なくとも私の場合は、不自然な読み方で、超スローで、ぎこちなく読まれるとかえって理解出来ない。
人によって快適と感じる読むスピードは幾分異なるだろうが、どうも脳が理解するのに快適だと感じる速度には一定の速さの幅があるような気がしてならない。
それは速過ぎても遅過ぎても効果が減じるように思う。
心地よい適度なスピードを原則としつつも、時折、目的別に、発音に注意しながら丁寧にゆっくりと読んでみたり、長文を短時間で読もうと速く読んでみたりすることは良い方法だと思う。
しかし日本人の多くの英語指導者が学習初心者に向けて読むスピードは全般的に不自然に遅すぎる嫌いがあると懸念する。
読むスピードが遅ければ、より深く理解できるというなら、それもまたひとつの手なのだと思うけれども、そうではないはずだ。
読むスピードがあまりに遅いと、かえって脳が自然に理解するのを妨げる。
欧米の幼稚園・小学生の子供たちが母語である英語を学習する際に、指導する教師があまりにもゆっくりとしたスピードで英語を喋っているとは考えられない。
きっと学年に合わせて、易しい単語を多用しながら、快適と感じるごく自然なスピードで大量の文章をシャワーのように浴びせているはずだ。
だとすると日本人の英語初心者に向けた英語指導者の文章読みスピードも現実場面に添った会話スピードに合わせた方が良いと思う。
実際に、英語のネイティブスピーカーを目の前にして会話するときのスピードで、聴く訓練をしたり、喋る訓練をしたほうが効果がずっと高い。
ディズニーアニメはじめ各種洋画だって、非現実的に喋るスピードが超スローな会話なんて聞いたことがない。
たまに英語学習者から英語指導者に対して、喋るスピードが速すぎて理解できないという意見・発言も出るかもしれない。
だが実際は、多くの場合、英語学習者の語彙力や読解力、文法力等の欠如が主な原因だったり、英語指導者の実力不足もしくはその辺の認識不足が原因だったりする気がする。


2012年2月7日火曜日



谷川俊太郎さんの著書「詩の本」(集英社)の中の「ただ生きる」という詩は、わたしたちが普段何気なく行っているさまざまな動作や状態が、実はどれほど物凄いことで、ありがたいことであるのか、当たり前なんかでは決してなく感謝に値することなのかについて、見事なまでに凝縮された形で表現されています。
人間の身体と心は、実は極めて危うい均衡で支えられ、ほんの些細なことでバランスを崩してしまう危ういものである。
健康は失って始めてそのありがたみ、その貴重さに気付く性質のもので、だからこそ、健康な人も健康を害してしまった人も、健康であることの重要さと「生きる」ということの意味をしっかりと考えましょうねとこの詩は訴えているように私には思える。



ただ生きる






立てなくなってはじめて学ぶ


立つことの複雑さ


立つことの不思議


重力のむごさ優しさ






支えられてはじめて気づく


一歩の重み 一歩の喜び


支えてくれる手のぬくみ


独りではないと知る安らぎ






ただ立っていること


ふるさとの星の上に


ただ歩くこと 陽をあびて


ただ生きること 今日を






ひとつのいのちであること


人とともに 鳥やけものとともに


草木とともに 星々とともに


息深く 息長く






ただいのちであることの


そのありがたさに へりくだる




「詩の本」(谷川俊太郎 集英社)より引用させていただきました。



童謡(4)

北原白秋の童謡です。


山のあなたを




山のあなたを


見わたせば、


あの山恋し、


里こいし。




山のあなたの


青空よ、


どうして入日が


遠ござる。




山のあなたの


ふるさとよ、


あの空恋し、


母こいし。



「名作童謡 北原白秋100選」(編著 上田信道 春陽堂)より引用。 


北原白秋が、「山のあなたを」という童謡の中でイメージした「里」は、白秋の母の実家の山間の里であるかもしれないと述べられている。
北原白秋は、「わが生い立ち」の中で、わたしの第二の故郷は肥後の南関だと記してある。
現在の熊本県玉名郡南関町だそうだ。
わたしは、父の両親とも、母の両親とも残念ながら逢ったことがない。
早くに亡くなっていたり、事情があって、逢えなかったりで、4人とも写真でしか見たことがない。
子供の頃、直接「おじいちゃん、おばあちゃん」と言って甘えたこともなければ、孫を愛おしげに眺める祖父母の表情を眺めたこともない。
だから祖父母のいる家庭を羨ましいと感じることがたまにある。もしかしたら、おじいちゃんコンプレックス、おばあちゃんコンプレックスがあるのかもしれない。
父の生まれた故郷、母の生まれた故郷に行って、その光景を確と目に焼き付け、在りし日の祖父母について聞いてみたいのだが・・・。



谷川俊太郎さんの著書「詩の本」(集英社)の中の「木を植える」
は人生について、運命について、人間という生き物について、いろいろと考えさせてくれる、大好きな詩の一つです。木を植えるとは、一体どういうことなのだろうと改めて深く考えさせられます。良くも悪くも極めて個性的で、私同様に感情表現が苦手な父は、昔住んでいた家においても、いま住んでいる家においても、季節毎に実る野菜・果物をあれやこれや植えて出来た作物を手に誇らしそうな顔をしてみたり、生育に何年も要する木を突如植えてみたりして楽しんでいるのもそういうことだったのか。意識しようが、意識しまいが、将来のあれこれを思い描いて、自然と対話し、現在の自分と対話し、過去と、未来と、未来を生きる人々と声なき声で静かに対話していたんだ。

谷川俊太郎先生の詩「木を植える」を引用させていただきます。


木を植える

木を植える

それはつぐなうこと

私たちが根こそぎにしたものを


木を植える

それは夢見ること

子どもたちのすこやかな明日を


木を植える

それは祈ること

いのちに宿る太古からの精霊に


木を植える

それは歌うこと

花と実りをもたらす風とともに


木を植える

それは耳をすますこと

よみがえる自然の無言の教えに


木を植える

それは智恵それは力

生きとし生けるものをむすぶ


童謡(3)

北原白秋の童謡です。


アメフリ


アメアメ フレフレ、


カアサン ガ


ジャノメ デ オムカイ、 ウレシイナ。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




カケマショ、カバン ヨ カアサンノ


アトカラ ユコユコ カネ ガ ナル。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




アラアラ アノコ ハ ズブヌレダ、


ヤナギ ノ ネカタ デ ナイテイル。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




カアサン、ボクノヨ カシマショカ。


キミキミ、コノカサ サシタマエ。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




ボクナラ イインダ、カアサンノ


オオキナ ジャノメ ニ ハイッテク。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。


「名作童謡 北原白秋100選」(編著 上田信道 春陽堂)より引用。 


母親の迎えを楽しみに、心待ちにして、雨降りを純粋に素直に

楽しめる子どもの頃の感覚って素晴らしいなあ。

雨が降ると、「ああ~、鬱陶しいな~。髪が濡れるなあ。服が

濡れるなあ。眼鏡が曇るなあ。傘が邪魔だなあ。」と考えがちな

大人になった自分の感覚が時に恥ずかしい。

2012年1月19日木曜日

下山が大事

五木寛之先生の新著「下山の思想」(幻冬舎新書)をいま拝読しています。先生が仰るとおり、復旧復興の際に我が国が目指すべき方向は、戦後、経済的発展・成長を遂げようと無理に無理を重ねた姿ではなく、もっと均整のとれた成熟した姿なのだと思う。経済指数以外の物差しを別に導入すべきだと思う。

2012年1月14日土曜日

受験生へ

センター試験もあと一日。今日出来た人も、あまり出来なかった人も頭を切り替えて試験に臨みましょう。制御できない試験の結果に照準を合わせるのではなく、これまで学習してきた成果を発揮する映えある場所だと思って、自分の最善を尽くすことに照準を合わせましょう。緊張しすぎず、肩の力を抜いて、試験が終わった後の楽しいことを想像しましょう。
平常心を心掛け、笑顔で集中です。
がんばれ!
教育制度の改革を望む

国鉄、郵政の改革に続いて、今度は、中央集権的な教育制度を地方分権の教育制度に変えるべきだ。
地方の教育行政には、首長も積極的に関与できるよう法律を変えるべきだと思う。
そして地方の教育方針を決定するのは、学校現場を知らない文科省官僚や教育委員会ではなく、住民に選ばれた首長と実際の学校現場に精通した精鋭部隊に任せるべきだ。
それが住民の利益に適う。

2012年1月11日水曜日

鞆の浦架橋問題について

福山市民の一人として、福山市・鞆の浦の埋め立て・架橋問題が最終的にどのような形で決着する(落ち着く)のか大いに関心がある。
新聞の報道によると9日、住民説明会が鞆小学校体育館で開かれたとある。
協議会を通じて、架橋計画推進派と架橋計画反対派の双方でいくつかの共通認識が得られているとある。
記事によると、次の3つが得られた共通認識だ。
1  道幅の狭い鞆町の県道を迂回するバイパスは有用である
2  鞆の浦の景観は大切である
3  架橋と海底、山側の両トンネルの三つのバイパスは時間短縮効果に若干差があるが、ほぼ同等の機能を持つ

新聞記事によると、湯崎英彦知事は、住民説明会で架橋推進の声が多かった点について、「説明会は、架橋の賛成、反対の多い少ないを問うものではない。即座に判断に結びつくものではない」との認識を示したとある。
私も湯崎英彦知事の判断・認識は、現時点においては、ずれていないと思う。
というのは記事によると、説明会は、鞆地区に住む人と働く人を対象に開かれているのだが、住民説明会の出席者は、鞆地区の住民約4600人の1割弱の約400人ほどしかいなかったとあるからです。
鞆地区の残り9割の住民の意思は、賛成なのか反対なのかこの度の住民説明会だけでは正しく判断が付きかねるからです。
加えて、この住民説明会には、鞆地区以外の福山市内の各地区住民の意見や声、鞆の景観や高い歴史的価値ゆえに鞆の浦を訪問したり、訪問しないまでも遠方からその景観維持を強く求める広島県内外の意見や声がどこまで反映されているのかよくわからないからです。
行政(福山市・広島県ともに)は、始めに結論ありき(どちらか一方に与するの)ではなく、出来るだけ白紙の状態から、客観的な情報や市民・県民・国民の声をさまざまな方法で幅広く収集し、少しでも公平な判断を最終的に下してほしいと心から願います。

2012年1月10日火曜日

般若心経

時間の都合がつく時、ある時は、自宅の一室で坐禅を組んで経文を唱え、ある時は、屋外で腹式呼吸をしながら経文を唱え、ある時は、お寺で坐禅を組んで経文を唱え、ある時は、四国八十八か所の寺のいくつかを巡りながら経文を唱え、この一年間、いろいろな場所で、坐禅を組み、瞑想して般若心経を唱えました。空海の「性霊集」の中の言葉は、物事の本質が述べられており、あまりの凄さにただただ圧倒されもしました。
佛教に興味を抱いたことで、学生時代から書籍その他の媒体を通じて親しんできた五木寛之先生、瀬戸内寂聴先生の著書の中の、これまで小生が素通りして読んでこなかった分野にも興味を抱かせていただきました。
般若心経の経文です。


般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空

空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色

無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法

無眼界乃至無意 識界 無無明 亦無無明尽

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多

故心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒夢想

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故

得阿のく多羅山みゃく 三菩提 故知般若波羅多

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦

菩提薩婆訶 般若心経

2012年1月7日土曜日

美しきもの


他人の感情を思い遣るさま


いつも笑顔で見ると心を和ませるさま


心根がきれいで共感能力に長けたさま


明朗快活で頭の切り替えの速いさま


好奇心旺盛で眼の表情が生き生きしたさま


筋肉と脂肪の均整が取れて丸みを帯びたさま


運動能力が高く肢体が躍動するさま


知的能力、判断能力が高いさま


肌が透き通って柔らかくて弾力のあるさま


思考が柔軟であるさま


鷹揚で適度にいい加減なさま


瞬時に気が利いた冗談や洒落を言えるさま


一瞬で相手の特徴を掴んでしまうさま


歌や物真似、似顔絵が上手なさま


その場の空気を盛り上げるために瞬時のユーモアを駆使できるさま


敏感に周囲の空気を読み取り、和を大切にするさま


仕事に夢中になって没頭しているさま


無我夢中で本気で遊ぶさま


緊張と弛緩の切り替えの巧みなさま


他人の喜びや悲しみに共感して泣けるさま

人の苦しみを自分の苦しみとするさま


人の話を興味深そうに聞くさま


料理の手際の良いさま


喜怒哀楽の感情表現が豊かであるさま


自他ともに尊重するさま


謙虚で協調性に長けているさま

他人の長所をすぐに見つけることの出来るさま


至極おいしそうにご飯を食べるさま


太陽のようにぽかぽかと人の心を温めることの出来るさま

2011年12月17日土曜日

English Haiku as “Requiem”

創作した日本語俳句をもとに英語俳句を開始します。
英語俳句1作目です。


日本語俳句

鳴き砂や

移りし魂の

悲の叫び


2011.12.17.Sat



英語俳句

The voices of the sands

I can hear on the beach

with a sorrowful sound



英語俳句の解説

Listen to the voices of the sands.
Many departed spirits are crying with grief.
The souls swallowed up by the big wave “Tsunami” are trying to communicate with their ex-families.


2011.12.17.Sat



東北の被災者に思いを馳せて俳句を詠む(4)


東日本大震災で大切な家族を津波の被害で亡くした方はたくさんいらっしゃいます。
巨大地震と津波の被害で亡くなった死者数は2012年1月6日時点で15844人、行方不明者数は3450人です。
あの日あの時間、三陸沿岸部で実際に起こってしまった状況を新聞、テレビの報道をもとに一人静かに頭の中で想像してみると恐怖と不安で心が騒めき始めます。
背後からひしひしと迫りくる津波を全身で感じながらひたすら高台へと駆け登る少年少女は、どれほど不安と緊張で恐ろしかったことでしょう。
津波の高さや勢いから半ば観念しながらなんとか助かる方法を探そうと最後の命懸けの行動をする人たちは、どんな精神状態に見舞われたのでしょう。
命が助かった人、命が助からなかった人、それぞれが、あの時あの瞬間に何を思い、何を願い、何を伝えたかっただろうかと想像してみました。
死を覚悟しながら必死で逃げている時、脳裏に何が過ぎり、家族、友人誰のことを頭に浮かべていたのであろうと想像すると胸が張り裂けそうになります。
運良く命が助かった人は、逃げ果せてほっとした安堵感とともに極度の興奮や襲ってくる恐怖感で全身がぐたっと疲労感に包まれたのではないでしょうか。
そして地震、津波で亡くなった家族や仲間がいることを後で知ってどれほどの衝撃に襲われ、意気消沈したことでしょう。
たとえ地震、津波で運良く生き残ることが出来たとしても、原発事故による放射能漏出の被害や苦痛、家族を喪失した深い悲しみ、慣れない仮設住宅での不便と不安、放射能被害拡散の恐怖等で、すっかり疲れ果てくたくたになっている人も多くいると想像いたします。
生き残った方、亡くなった方を問わず、この度の東北の震災で被害に遭った方々に対し今の私に何が出来るかを考えてみました。
考えた結果、震災で亡くなった方に対しては鎮魂の思いを込めて俳句を詠むことにしました。
そして震災で生き残った人に対しては彼らがあの日あの時体験した恐怖や不安、緊張や興奮を想像しながら、また今体験している苦痛や心配、怒りや悲嘆の感情を想像しながら俳句を詠むことにしました。
想像して頭に思い浮かんだ俳句を一つずつ加えていきます。
今日は5首目を改良して6首めと7首目を発表いたします。



○ 鳴き砂や
  移りし魂の
  仏の叫び


○ 鳴き砂や
  移りし魂の
  霊の叫び


○ 鳴き砂や
  移りし魂の
  悲の叫び


解説  鳴き砂とは、砂の上を歩いているとキュッキュッと鳴る砂のことです。鳴り砂あるいは泣き砂とも呼ばれます。
英語では、鳴き砂のことをsinging sand,whistling sandなどと呼びます。
岩手県上閉伊郡大槌町の浪板海岸や小久保海岸、宮城県気仙沼市の九九鳴浜や十八鳴浜、福島県いわき市の豊間海岸等に存在します。
足で踏むとキュッという鳴き砂のその音が、東北沿岸部を襲った津波で流され、命を失った人たちの魂の叫びに聞こえると謳いました。
津波により肉体を失った魂が、その躯を求めて海岸線の砂に霊魂を宿らせ、精霊を乗り移らせることにより、生前に家族や親しい人に告げたかった大切なことをなんとか伝えようと音を出し、メッセージを送っているように私には感じられる。


6首目は「仏」という文字を「霊」という文字に変えてみました。
5首目では「仏」の複数の意味の中から、特に、死者またはその霊という意味で使用しました。
6首目では、2つの意味で「霊」という文字を使用しました。
1つは、肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい。たまの意味で。
もう1つは、はかり知ることのできない力のあること。目に見えない不思議な力のあること。また、その本体の意味で。

7首目は、さらにその「霊」という文字を「悲」という文字に変えて表現してみました。
7首目では、次のような意味で、「悲」という文字を使用しました。
自分の力ではとても及ばないがゆえに、切なくてたまらないという意味で。
泣きたくなるほどつらい。心が痛んで耐えられない。痛ましいという意味で。
かなしい(かなし)。胸が裂けるように切ないという意味で。
あわれみ(あはれみ)。衆生の苦しみを除こうとする心の意味で。
「悲」という漢字の一部である「非」の部分は、羽が左右に反対に開いたさまを表わしており、両方に割れる意味を示します。
「悲」という文字は、「心+非」で成り立っており、心が調和統一を失って裂けることを意味します。

2011年12月16日金曜日

FreedomとLiberty

ジーニアス和英辞典で「自由」を引いてみると次のように記されています。

freedom (享受している)自由(の状態)、束縛や制限のないこと

liberty (まだ享受していない)(束縛・圧制などからの)自由
ある場所の使用(出入り)の自由

「自由」を表わす一般的な語はfreedomで、しばしばlibertyもfreedomと同義に用いられる。
ただし、libertyは支配者・政府の圧制・抑圧から抜け出して自由になることを意味するためにより積極的なニュアンスがあり、また「まだ享有していない自由」をいう場合が多い。
これに対してfreedomは単に言動について束縛や制限のないことを意味し、特別に束縛や圧政の存在を前提としない。

今度はロングマン現代アメリカ英語辞典を引いてみる。

freedom

1 the right to do what you want without being controlled or restricted by the government,police etc.
・・・・・
2 freedom of speech/religion etc.the legal right to say what you want,choose your own religion etc.
・・・
3 the state of being free and allowed to do what you want
・・
4 the state of being free because you are not in prison

5 freedom from sth the state of not being affected by something that makes you worried,unhappy,afraid etc.
・・
6 freedom of choice the right or ability to choose whatever you want to do or have
・・
7 freedom of information the availability to everyone of information that a government has about people and organization
・・


liberty

1 the freedom and the right to do whatever you want without asking permission or being afraid of authority
・・・
2 a particular legal right
・・
3 be at liberty to do sth
(FORMAL) to have the right or permission to do something
・・
4 take the liberty of doing sth to do something without asking permission because you do not think it will upset or offend anyone
・・
5 take liberties with sth to make unreasonable changes in something such as a piece of writing
・・
6 take liberties with sb
(OLD-FASHIONED) to treat someone without respect by being too friendly too quickly,especially in a sexual way

興味ある人は辞書で引いてそれぞれの例文を見比べながらfreedomとlibertyのニュアンスの違いを掴みましょう。

2011年12月15日木曜日

英語指導方法の過去と未来


大西泰斗先生が一昨日投稿されたブログ「MY HEART LEAPS UP WHEN・・・」を読みながらこれまで日本人の多くが教わってきた学校英文法について考えてました。
うまくは言えないのだけれども大西先生が言わんとするところがなんだかよくわかるなあと感じ入りました。
まずは大西泰斗先生の一昨日のブログを引用させていただきます。

中学用の文法書がそろそろ気になってきた。
で。本屋に行って、とりあえず5冊ほど高校受験参考書を買って、1日かけて読んでみた。

ひどい頭痛がした。
大学受験用もひどいが、高校受験用もひどい。
I think that she likes basketball.

(1) that は「ということ」の意味
----それではthat がなかったら「ということ」と訳せないのですね。


(2) that が導く節は従属節で名詞の働きをする名詞節であり、thinkの目的語となっている
---それではthinkの後ろには目的語として名詞がくるのですね。例を教えて欲しいのですが。かなり特殊な意味合いでThink it! とは言いますが。もしこの論旨をごり押しするなら、「名詞節と名詞は目的語としての分布が異なる」と言わねばならず、それでは「名詞節」と呼んだ意味が不明になります。


(3) 接続詞that はbe+形容詞のあとに続くことがある。be afraid that/ be sure that/ be glad that...
---名詞節説明中のコラムですので、afraidの後ろには名詞がくるという論旨ですね。それでいいのですか。また、He said to me that 節 も可能ですがHe said to me の後ろに名詞がくる。それでいいですね。僕は見たことがありませんが。


学校文法が「わかりやすい」と言う人もいるようですが、いったい何がわかったのですか。

「わかった」人は、学校文法がわかったわけじゃない。学校文法を通じて「自分の能力で」英語をわかった賢い人なのだと思う。学校文法で話せるようになった人は、学校文法のみるべき内容だけを取捨選択して、行間を埋めて、独力で英語力を組み上げたのだと思う。学校文法は、少なくとも僕には「わかることはできない」から。

「一億人の英文法」は、学校文法を使ってすら英語を話せるようになった人に時短を提供し、行間を埋めることができずに英語をあきらめかけている人に、「わかった」を提供するために書きました。立ち読みでもいいよ、目を通してみてくださいね。



以上が引用させていただいた大西先生のブログの文章です。
おっしゃる通りで私たちの世代は、
I think that she likes basketball.
という文章を目にすると、that節がthinkの目的語となり、that she likes basketball は名詞節であると即座に考えます。
同時にI thinkが主節であるからthat she likes basketballは従属節であるのだなと。
そして日本語に訳すときは、名詞節に相当するthat she likes basketballのS´+V´部分を「~ということ」と訳すように学校の教科書にも書いてあったし、そのようにも教わりました。
理解できようが、理解できまいが、学校の教科書にそう書かれてある以上きっとそうなんだろうと信じ、反復学習を通して強引に覚えたものでした。
学校の英語の教科書に書かれてある以上、「理解できない部分があるのは、当方の頭が悪いゆえであろう。そのうち英語能力が向上した暁には、ああ~そうだったのか。そういうことだったのか!と納得し理解できるようになるのであろう」と信じ込んでいました。
いまこの年齢になって、幾ばくかの英語学習を重ねてきて思うのは、ネイティブスピーカーはこの単純な英文を見てそんな間怠っこしいことは微塵も考えはしないだろうということ。
うまくは言えないけど本当は単純で易しい英文なのに敢えて難しく難しくして理解することを困難にしている気が・・・。
そのような例は実は山のようにある。
学校文法のこれは有効に使える!という部分だけを選び出して、読み書き話し聴くというさまざまな方法を上手に組み合わせて駆使しながら英語という言語に慣れ親しむと同時にその特質を掴み取り、その人独自のやり方で不足欠落した部分を埋めて英語能力を高めていったのだと思う。
私自身の過去を振り返っても、実用的な英語をより効率的に身に付ける方法はもっとたくさんあったと認めざるを得ない。
同時にいま学校文法を使用して英語を学習している人達のことを考えてもまだ欠陥が山とあると認めざるを得ない。
本当は英語学習者に向けた、合理的で実用的なシステムが学校であれ学習塾であれ既に出来上がって存在していれば一番良いのだけれど、実際はそうではない。
学校文法が不十分であることを重々承知しながら、それ以外の画期的な方法、賢いシステムを学校関係者も民間の英語指導者も上手に作ることが出来ていないというのが本音だろう。
その意味で大西泰斗氏が、主に中学高校生対象に、この度実用的な英語能力を身に付けるための英文法書「一億人の英文法」(大西泰斗、ポール・マクベイ 東進ブックス)を執筆し、上梓した意味は大きい。
この本では、一目で細かいニュアンスが伝わるイラストを多用しており、英語学習者は一瞬でネイティブの意識感覚を理解できるように工夫が施されている。
また今までの機械的に規則を暗記させる非合理的な方法から、文法用語を極力排して、配置の原則を適切な例文を挙げながらわかりやすく解説するという合理的な方法に変換している。
このことを通じて英語学習者は、英語という言語は「配置の言葉」であるという事実を実感することが出来る。
このように大西泰斗先生の「一億人の英文法」という書籍は、合理的かつネイティブの意識や感覚を見事に取り入れたという点でたいへん素晴らしい本だと思う。
同時に、この本は、我々英語教育に携わる者に、学校文法以外の方法やシステムで学生を指導する手立てはいくらでも存在するという明白な事実に気付かせてくれる。


大西泰斗先生のプロフィールです。
1984年筑波大学第一学群人文学類卒業。
筑波大学大学院文芸言語研究科博士課程単位取得退学。
文学修士(筑波大学)。
1996年オックスフォード大学に客員研究員として招かれ研究に従事。
現在、東洋学園大学人文学部教授。
ポール・クリス・マクベイ先生と共同で「ネイティブスピーカーシリーズ」を執筆。
過去に「ハートで感じる英文法」、「ハートで話そう!マジカル英語塾」等のテレビ番組に出演。


燃え滾る情熱と不断の努力で日本の英語教育を本気で変えようとしている熱い方です。

2011年12月14日水曜日

「日本八策」への賛同コメント

昨日、茂木健一郎氏が日本の未来を切り開くための私案を発表されました。
茂木健一郎氏が、日本の将来のために提示した「日本八策」を皆さんに紹介いたします。
同時にその提案に対する私のコメントも発表します。

茂木健一郎氏が提示した「日本八策」の全文をまず紹介いたします。

日本八策(1)インターネット、グローバル化という「偶有性」の文明の波が押し寄せる時代。福澤諭吉が「適塾」で示したような、寝食を忘れて猛勉強する精神を復活させる。「知のデフレ化」の逆転。吉田松陰が松下村塾で講じたように、現実の状況に安易に妥協せず理想を貫く「心の整え方」を磨く。

日本八策(2)記者クラブに象徴されるマス・メディアの守旧体勢、独占体制を改め、真のジャーナリズムを醸成するための方策を実現する。メディアを、既得権益層の自己保身の手段とせず、日本を先に進める改革のためのメディアとする。結局はメディアのためにもなる。自己否定なくして、成長もない。

日本八策(3)役所における悪しき文書主義、形式主義を改め、公務員が実質的な職務にだけ専念できるようにする。民間も「お上頼み」「指示待ち」の風潮を改める。市場における自由闊達な競争、共創を図るための法的制度、インフラの整備を進める。多様なキャリア形成を妨げる「新卒一括採用」の廃止。

日本八策(4)大学を世界に開かれた、真に高度な学問の切磋琢磨の場に。小中高校における学習を、大学入試への準備の負担から解放する。教科書のデジタル化、クラウド化は不可避。大学を、ガラパゴスな「クラブ」から進化させ、自立して世界で活躍するクリエイティヴ・クラスの資質醸成の場とする。

日本八策(5)現代における最大の付加価値は、世界規模に展開した情報価値ネットワークから生まれる。モノ重視の「ものづくり」の時代から、ネットワークと結びついた「ものづくり2.0」へと、日本の産業構造を進化させる。プログラミング能力、システム思考を新たな「読み書きそろばん」に。

日本八策(6)「みんなちがって、みんないい」の精神で、個性を育む。一人ひとりがユニークな属性をもってこそ、共同して事に臨んだ際に「かけ算」でものごとを大きくすることができる。みんなが同じになってしまっては、積算が大きくならない。個性がゼロだと、かけてもゼロになる。

日本八策(7)自らの歴史や、文化を引き受ける「プライド」のないところに成長はない。「隣の芝生」が青いからと自らを全否定するのではなく、むしろ、過去からの継続を身体化し、新たな生命をよみがえらせること。「和魂洋才」の精神を、地球全体に開かれた「和魂球才」へと進化させる。

日本八策(8)「もののあはれ」のような伝統的価値観、里山における自然との共生は、世界に誇るべき日本の文化。マンガやアニメに見られる表象の豊かさ、「おまかせ」の食文化など、日本の伝統をさらに掘り下げ、発展させること。感性に根ざしたクオリア立国。自らを開いて、世界に贈り物を。



茂木健一郎氏がわたしたち日本人に向けて発した「日本八策」に対するわたしのコメントを発表いたします。


茂木健一郎先生へ

茂木健一郎先生の「日本八策」の私案に大いに賛成いたします。
わたしたちが住むこの島国日本は、国土が特別大きいわけではありません。
多くの地下資源に恵まれているわけでもありません。
そしていま日本は政治的にも経済的にも曲がり角を迎えています。
加えて東日本大震災という誰も経験したことのない大災害を経験し、今後の舵取り如何では衰退しかねないほどの危機の途上にいます。
もしも後世から現在の日本を眺めることが出来るなら、今日本は繁栄するか衰退するかの瀬戸際に立たされており、行動次第で浮沈が決まる時代の転換点にいるのだと思います。
時代の変わり目に居てかつ多くの困難に見舞われた今、衰退し沈没していかないためには、「日本八策」に示されているように、日本を救済し、新たな発展へと導く明確な未来像を我々は思い描き、悪しき慣行を抜本的に見直し、改革を果断に実行していくことが必要です。
日本が国際社会の中でその存在感を発揮し力強く生き残っていくためには勤勉さと知力が必要です。
老若男女問わず大多数の日本人が寝食を忘れて猛勉強することを実践し、理想を理想のままとせず改善が望まれる現実には勇気をもって変革を加えていく勇気が何よりも必要です。
マスメディアの守旧体制、独占体制を改め、より公平で偏向の度合の少ないジャーナリズムの実現に向けて行動することも重要です。
役所の悪しき慣行や数々の無駄を改めることは、公務員が生産的な仕事に割くことの出来る時間を大幅に増やすことに繋がり効果大です。
より公平さを実現した上での市場での自由な競争を実現すること、多様なキャリア形成を認めようとしない新卒一括採用を即時に廃止することは、有効にその能力を社会還元しないまま燻っている多くの才能に光を当てることに繋がり、埋もれた多くの原石が本来の輝きを取り戻すきっかけになると確信します。
そうすることで停滞した日本社会に新たな活力を生み出し、埋もれていた知的資源も有効に活用できると思います。
日本の学校では教師も生徒も、小中高校と長い期間、偏差値の高い有名な大学に合格するためだけに多くのエネルギーを費やし、ストレス塗れになっている現状があります。
小中高大いずれの段階であれ、生徒が学習を通じて知の喜びを知ることが出来ればあとは放っておいても知の欲求に突き動かされて高度な学問の追究へと進んでいくのは自然の理だと思います。
学校や教師の使命を考えるとき、本来、教育者というものは、授業を通して、生徒にその教科もしくは単元に、どれだけ強い興味関心を抱かせ、自発的な学習意欲を湧かせ、具体的な学習行動へ誘ったかで評価されるべきだと思うし、そこが教育者の勝負でもあり、腕の見せ所でもあると信じます。
一旦、知的欲求への火をつけてしまえば生徒は放っておいても勝手に学習を始めます。
後は適切に知の泉へと誘導するだけです。
知的欲求に目覚める年齢は、ひとりひとり異なるし、知識を吸収するスピードもひとりひとり異なります。
しかし現在の多くの学校ではそのことを大概無視して常に現段階での成績の良し悪しや序列に重きを置く傾向があります。
本来、学問への欲求が最大に高まった時に、学術の最高機関である大学で、仲間と切磋琢磨しながら思う存分学ぶことが出来れば理想的だと言えます。
現在、日本の大学は、閉鎖的でガラパゴス化していると言われても仕方がないと思います。
知的欲求を満足させたい、学問を追究したいと願う世界中の優秀な若者が競うように日本の大学に集まってくることが本来望ましいのです。
閉鎖的な側面の強い日本の大学を世界に開かれた、真に高度な学問の研究機関にすることは、日本の将来を占う上でも極めて重要な喫緊な課題です。
日本の産業構造をネットワークと結びついた「ものづくり2.0」へと重点シフトさせていくことも現実的な提案で素晴らしいと思います。
一人一人異なる長所とユニークな才能を貴い個性として伸ばしていき、その人らしさをそのまま生かすことが結果的に日本の国益にも資すると思います。
自らの歴史や文化を引き受ける矜恃を持つこと、日本固有の精神を慈しみながら世界の学問・知識を学び取る姿勢を持つこと、日本人に伝統的に受け継がれている情趣を解する心を持つことも日本の文化を深化発展させていく上で肝要だと思います。
因って、茂木健一郎氏の提示する日本の未来を切り開くための「日本八策」の案に大いに賛成いたします。



2011年12月12日月曜日

東北の被災者に思いを馳せて俳句を詠む(3)


東日本大震災で大切な家族を津波の被害で亡くした方はたくさんいらっしゃいます。
巨大地震と津波の被害で亡くなった死者数は先月11月22日時点で15839人、行方不明者数は3632人です。
あの日あの時間、三陸沿岸部で実際に起こってしまった状況を新聞、テレビの報道をもとに一人静かに頭の中で想像してみると恐怖と不安で心が騒めき始めます。
背後からひしひしと迫りくる津波を全身で感じながらひたすら高台へと駆け登る少年少女は、どれほど不安と緊張で恐ろしかったことでしょう。
津波の高さや勢いから半ば観念しながらなんとか助かる方法を探そうと最後の命懸けの行動をする人たちは、どんな精神状態に見舞われたのでしょう。
命が助かった人、命が助からなかった人、それぞれが、あの時あの瞬間に何を思い、何を願い、何を伝えたかっただろうかと想像してみました。
死を覚悟しながら必死で逃げている時、脳裏に何が過ぎり、家族、友人誰のことを頭に浮かべていたのであろうと想像すると胸が張り裂けそうになります。
運良く命が助かった人は、逃げ果せてほっとした安堵感とともに極度の興奮や襲ってくる恐怖感で全身がぐたっと疲労感に包まれたのではないでしょうか。
そして地震、津波で亡くなった家族や仲間がいることを後で知ってどれほどの衝撃に襲われ、意気消沈したことでしょう。
たとえ地震、津波で運良く生き残ることが出来たとしても、原発事故による放射能漏出の被害や苦痛、家族を喪失した深い悲しみ、慣れない仮設住宅での不便と不安、放射能被害拡散の恐怖等で、すっかり疲れ果てくたくたになっている人も多くいると想像いたします。
生き残った方、亡くなった方を問わず、この度の東北の震災で被害に遭った方々に対し今の私に何が出来るかを考えてみました。
考えた結果、震災で亡くなった方に対しては鎮魂の思いを込めて俳句を詠むことにしました。
そして震災で生き残った人に対しては彼らがあの日あの時体験した恐怖や不安、緊張や興奮を想像しながら、また今体験している苦痛や心配、怒りや悲嘆の感情を想像しながら俳句を詠むことにしました。
想像して頭に思い浮かんだ俳句を一つずつ加えていきます。
今日は5首目を発表いたします。



○ 鳴き砂や移りし魂の仏の叫び

解説  鳴き砂とは、砂の上を歩いているとキュッキュッと鳴る砂のことです。鳴り砂あるいは泣き砂とも呼ばれます。
英語では、鳴き砂のことをsinging sand,whistling sandなどと呼びます。
岩手県上閉伊郡大槌町の浪板海岸や小久保海岸、宮城県気仙沼市の九九鳴浜や十八鳴浜、福島県いわき市の豊間海岸等に存在します。
足で踏むとキュッという鳴き砂のその音が、東北沿岸部を襲った津波で流され、命を失った人たちの魂の叫びに聞こえると謳いました。
津波により肉体を失った魂が、その躯を求めて海岸線の砂に霊魂を宿らせ、精霊を乗り移らせることにより、生前に家族や親しい人に告げたかった大切なことをなんとか伝えようと音を出し、メッセージを送っているように私には感じられる。

東北の被災者に思いを馳せて俳句を詠む(2)


東日本大震災で大切な家族を津波の被害で亡くした方はたくさんいらっしゃいます。
巨大地震と津波の被害で亡くなった死者数は先月11月22日時点で15839人、行方不明者数は3632人です。
あの日あの時間、三陸沿岸部で実際に起こってしまった状況を新聞、テレビの報道をもとに一人静かに頭の中で想像してみると恐怖と不安で心が騒めき始めます。
背後からひしひしと迫りくる津波を全身で感じながらひたすら高台へと駆け登る少年少女は、どれほど不安と緊張で恐ろしかったことでしょう。
津波の高さや勢いから半ば観念しながらなんとか助かる方法を探そうと最後の命懸けの行動をする人たちは、どんな精神状態に見舞われたのでしょう。
命が助かった人、命が助からなかった人、それぞれが、あの時あの瞬間に何を思い、何を願い、何を伝えたかっただろうかと想像してみました。
死を覚悟しながら必死で逃げている時、脳裏に何が過ぎり、家族、友人誰のことを頭に浮かべていたのであろうと想像すると胸が張り裂けそうになります。
運良く命が助かった人は、逃げ果せてほっとした安堵感とともに極度の興奮や襲ってくる恐怖感で全身がぐたっと疲労感に包まれたのではないでしょうか。
そして地震、津波で亡くなった家族や仲間がいることを後で知ってどれほどの衝撃に襲われ、意気消沈したことでしょう。
たとえ地震、津波で運良く生き残ることが出来たとしても、原発事故による放射能漏出の被害や苦痛、家族を喪失した深い悲しみ、慣れない仮設住宅での不便と不安、放射能被害拡散の恐怖等で、すっかり疲れ果てくたくたになっている人も多くいると想像いたします。
生き残った方、亡くなった方を問わず、この度の東北の震災で被害に遭った方々に対し今の私に何が出来るかを考えてみました。
考えた結果、震災で亡くなった方に対しては鎮魂の思いを込めて俳句を詠むことにしました。
そして震災で生き残った人に対しては彼らがあの日あの時体験した恐怖や不安、緊張や興奮を想像しながら、また今体験している苦痛や心配、怒りや悲嘆の感情を想像しながら俳句を詠むことにしました。
想像して頭に思い浮かんだ俳句を一つずつ加えていきます。
今日は4首目を発表いたします。



○ 海鳴りや稚児のおののく目の憂え

解説  海鳴りとは、海岸線では穏やかな天候であるのにゴォーと遠くの海から聞こえてくる轟音のことです。海鳴りは、沖の荒れた天候によって波浪が生じ、その波が崩れる際に出る音であり最大10km以上伝わります。東日本大震災による津波の恐怖を体験し、海からの音に敏感になっている幼子には海岸線で耳にする自然が奏でる海鳴りの音が、津波の再来を告げる前兆の音に聞こえて不安が高まり、目の表情が恐怖で脅えている様子を謳いました。

2011年12月5日月曜日

東北の被災者に思いを馳せて俳句を詠む(1)


東日本大震災で大切な家族を津波の被害で亡くした方はたくさんいらっしゃいます。
巨大地震と津波の被害で亡くなった死者数は先月11月22日時点で15839人、行方不明者数は3632人です。
あの日あの時間、三陸沿岸部で実際に起こってしまった状況を新聞、テレビの報道をもとに一人静かに頭の中で想像してみると恐怖と不安で心が騒めき始めます。
背後からひしひしと迫りくる津波を全身で感じながらひたすら高台へと駆け登る少年少女は、どれほど不安と緊張で恐ろしかったことでしょう。
津波の高さや勢いから半ば観念しながらなんとか助かる方法を探そうと最後の命懸けの行動をする人たちは、どんな精神状態に見舞われたのでしょう。
命が助かった人、命が助からなかった人、それぞれが、あの時あの瞬間に何を思い、何を願い、何を伝えたかっただろうかと想像してみました。
死を覚悟しながら必死で逃げている時、脳裏に何が過ぎり、家族、友人誰のことを頭に浮かべていたのであろうと想像すると胸が張り裂けそうになります。
運良く命が助かった人は、逃げ果せてほっとした安堵感とともに極度の興奮や襲ってくる恐怖感で全身がぐたっと疲労感に包まれたのではないでしょうか。
そして地震、津波で亡くなった家族や仲間がいることを後で知ってどれほどの衝撃に襲われ、意気消沈したことでしょう。
たとえ地震、津波で運良く生き残ることが出来たとしても、原発事故による放射能漏出の被害や苦痛、家族を喪失した深い悲しみ、慣れない仮設住宅での不便と不安、放射能被害拡散の恐怖等で、すっかり疲れ果てくたくたになっている人も多くいると想像いたします。
生き残った方、亡くなった方を問わず、この度の東北の震災で被害に遭った方々に対し今の私に何が出来るかを考えてみました。
考えた結果、震災で亡くなった方に対しては鎮魂の思いを込めて俳句を詠むことにしました。
そして震災で生き残った人に対しては彼らがあの日あの時体験した恐怖や不安、緊張や興奮を想像しながら、また今体験している苦痛や心配、怒りや悲嘆の感情を想像しながら俳句を詠むことにしました。
想像して頭に思い浮かんだ俳句を一つずつ加えていきます。
先々月の10月24日(月)にブログを通じて発表した2首と今日作った1首の合わせて3首発表いたします。



○ 鈴虫の音に癒される鎮魂歌     

解説  秋この時期、羽をすり合わせて鈴を振るようにリインリインと鳴く鈴虫の音が東北で亡くなった人の静かなる魂の声に聴こえて癒されるさまを謳った。



○ 田圃道真っ赤に染める彼岸花

解説  田舎の田圃道で彼岸花が意思を持ってここに咲いているよと死に別れた家族、仲間に訴えかけ告げるように鮮明に赤々と咲いているさまを謳った。



○ 旅立ちを告げるが如く黄葉落つ

解説  秋のこの時期一枚また一枚と公孫樹の黄葉、楓の紅葉が役目を終えて散っていく。美しく彩られた葉の落下していく様子、その姿が新たな旅立ちを我々に告げ、自らの意思で別れの儀式を行っているように私には思われる。