2012年2月29日水曜日


いま政治家のなすべきこと


野田佳彦首相は消費増税に突き進んでおられます。国民に税負担を強いる前にどうしても政治家はやるべきことがあるように私には思えます。それは小沢一郎氏が指摘されるように統治機構を根本から変えて無駄をなくすことです。中央集権体制から地域主権体制へ徹底的に変革することです。
 現在、存在する行政の無駄という無駄の問題を解決しようとせずに、歳入が不十分であるという理由で、安易に消費増税を持ち出すのはどうも私には納得がいきません。行政の無駄の徹底的な排除が先です。
多くの日本人は、家計の収入が減ると、衣食住その他すべての面で、否が応でも徹底的な無駄の排除に取り組まざるを得ません。つらくても徹底的に無駄という無駄をなくすことから始めます。
  同様に国家だって危難にあるとき、まず目に見える無駄という無駄を徹底的に排除することから取り組むのは当然のことだと思う。行政の二重三重の無駄をこのまま維持させるために消費税を上げることを多くの国民は許可しないと思う。
政治家はまず全力で行政の無駄の排除に取り組んで欲しい。無駄排除のための統治機構の抜本的改革に取り組んでほしい。それが多くの国民の希望だと私は思う。


2012年2月25日土曜日

大学のガラパゴス化


本日、茂木健一郎先生が「大学のガラパゴス化」についての所見をブログ『茂木健一郎 クオリア日記』の中で公開され、多くの読者にコメントをリクエストされていました。そこで私も恥ずかしながら、茂木先生の文章を何度か読んだ上で、自分の意見をまとめてみました。


私は19年前に大学を卒業したのだが、どうも日本では、中学・高校と比較して、大学の構内に、教育の最高機関で学術研究のために真剣に教えを請い、授けるという緊張感、空気が薄い気がする。それは、難関大学入試合格まで必死に学習してきた新入生にも、大学生活に徐々に慣れてきた上級生にも言えるように思う。実は、教えを授ける大学の先生方の中にもそういったなんとなくぬるい空気はあったように思う。高校までと比べ、キャンパス内には、教えを受ける側にも教えを授ける側にも、うまく言葉で表現できないが、本来学びの場に必要な望ましい緊張感が欠如していたと思う。もちろんそんな中でも真面目に学習に取り組んでいた生徒もいたし、茂木先生のように受講者を夢中にさせてくれる講義をして下さる教授や准教授、講師や非常勤講師の先生もいらっしゃった。ただ大学構内を流れる全体の空気が、そこまで真剣になって学習しなくても、入学さえすれば、卒業はそれほど難しくないですよと言う、日本でだけ通用する、独特なぬるい空気が流れていた。ごくたまに国内の他大学を覗いてもやはりその空気は流れていた。少なくとも私にはそう映った。当時、社会(就職先となる多くの企業)が我武者羅になって勉学に励む学生を文系の生徒たちに必ずしも求めていなかったという事情もあるのかもしれない。大学入試の在り方や大学教育の在り方(早期に始まりしばしば長期に及ぶ就職活動も含む)に真剣に手を付けてこなかった過去のつけが今まわってきているのだと思う。


2012年2月23日木曜日

インストラクターの人気の秘密


一昨昨日、久方ぶりにフィットネスクラブのあるコーチのプログラムレッスン(プールレッスン)に参加させてもらった。肉離れする前(18ヶ月前)と同様、女性インストラクターの人気は抜群に高く定員いっぱいの満員御礼だった。(彼女のレッスンは、スタジオレッスン、プールレッスンともに集客力が人並外れて高く、しばしば定員オーバーで参加出来ない会員が現れる)相変わらずレッスンのperformancehighだった。小生は右ふくらはぎの状態がまだ不十分なので、コーチの許可を得たうえで、両足固定して上半身のみの運動をした。通常、脚を使えずに運動量が激減すると、運動に集中・没頭出来ないので、レッスン満足度、充実度はうんと減る。周りが盛り上がっていても運動しない分こちらの頭は冷静なので周囲の熱気とのギャップで白けてしまうこともある。その点、彼女のレッスンは、老若男女を問わず、多くの会員さんが定員に達する前に参加資格を得ようと競うだけあって、小生の汗も碌にかけない上半身のみの運動でもありがたいことに満喫することが出来た。なぜこれほど多くの会員さんが彼女のレッスンに我先にと駆けつけるのだろうか。人気の秘密は何なのだろうか。
私なりに分析してみた。

1つ目は、スタジオプログラムにせよ、プールプログラムにせよ、パフォーマンスの高さだ。限られた時間を内容面で充実させ、皆に楽しんでもらおうと事前にプログラムを研究し尽くしている。レッスン内容から十分な事前準備と心の余裕(自信)を持って臨んでいることが伝わってくる。

2つ目は、会員さんの顔ぶれや動き、様子に合わせて、臨機応変・柔軟にレッスン内容を咄嗟に組み替えている点だ。

3つ目は、彼女自身がダンスや身体を動かすことが大好きであり、傍から見てもそのことが自然に伝わってくる点が挙げられる。

4つ目は、会員さんとの付かず離れずの快適・適度の距離だ。

5つ目。これは何より大事な人気の秘訣と思われるのだが、レッスン参加者が大勢いるにも関わらず、どうも彼女はひとりひとりの会員さんが『見えている』ということである。
レッスン中の会員さんの表情や身体の動きから、参加者ひとりひとりの満足度を冷静に鋭い感性で感知しているのだ。

6つ目は、個々のプログラムレッスンは、いろいろ細かい制約や規則があるのであろうが、彼女は、規則に必要以上に縛られることなく、規則は本来何のためにあるのかを理解している点だ。一番大切なことはプログラムの規則に捕われることではない。
自分の頭で状況を瞬時に分析・判断して、顧客の顔ぶれを見ながら、顧客満足を最優先にして、独自の判断で、レッスン内容を微調整・変更する柔軟さと行動力だ。


どんな仕事でもある程度共通して言えることであろうが、決められた規則通りに動くということは実は簡単で楽ちんだったりする。
想定外の各種事態へのインストラクターの咄嗟の対応で、実はそのインストラクターが普段どれだけ舞踊等を研究しているか、努力鍛錬しているか、舞踊の適性が高いか、先天的な素質があるか、才能が高いかが現れたりする。
インストラクターが考えた振付けが次にどのように展開していくかは、流れを見ればある程度は予想が付く。
けれども、会員の『こころ』が見えている賢明なインストラクターは、意外なところで変化をつけて動きを変えたり、敢えて動きを変えなかったりして、こちらの予想通りには動いてくれない。
次にインストラクターがどう動くのか半分は予想が付くけれども、残りの半分は予想が付かない。
油断していると、一人だけ動きに取り残されてしまう。だから没頭する。
尊敬する茂木健一郎先生がよく指摘される『偶有性』だ。
そのような偶有性が存在するとき、我々はどきどきわくわくする。
小生の場合、そのような時、「今この瞬間生きている」と実感する。
偶然その時その場に居合わせた会員とインストラクターとで紡ぎ出す、一回限りの内容・パフォーマンスだから、我々はぞくぞくする。
以上のような理由で、私が通う某フィットネスクラブの、某インストラクターは、会員さんに高い支持を得、高い人気があるのだろうと考えるに至った。


2012年2月21日火曜日

下山の思想


先月24日に、五木寛之先生の著書「下山の思想」を読み終えて、ツイッターにてつぶやいた文章をブログ上でも載せておきます。


『五木寛之先生の新著「下山の思想」(幻冬舎新書)を読了した。下山するという行為は、マイナスでもあきらめでもなく、次に登山するために必要不可欠な行為で、極めて前向きな過程なのだという思想に強く納得した。山登りは、山頂まで登ってそのあと安全無事に山麓まで戻ってきて初めて完了ですからね。』


2012年2月20日月曜日


映画「Time」を見た感想


昨日、上映中の「Time」を鑑賞した。個人個人の所有する命の残り時間を、物と交換したり、人に分け与えたり、人に恵んでもらったりする発想に新鮮さを感じ、時間の持つ意味と価値を深く考えさせられた。一部の特権的な富裕層が長く生き存えるため、多数の貧困層の命の残余時間を搾取・収奪する構図は、不条理かつ不平等な側面を持つ実社会の姿を見ているようで恐ろしかった。監督・脚本家は、現実社会の制度の欠陥、富の分配の不公平、既成勢力が守ろうとする秩序の矛盾を訴えたかったのであろう。格差社会の問題の本質は、ひとりひとりの能力・実力といったファクターを無視して、所属組織や肩書き・地位に不健全なまでの価値を置き、真に公平な競争が行われていないことだと思う。


2012年2月19日日曜日

“My inner thoughts”  『深く思うこと』


言われると当たり前のことではあるけれど、どうしても気になって仕方ない、現在わたしの心を大きく占めているテーマがある。それは『こころ』の持つ特徴、意味、可能性、由来、行先だ。『こころ』はその形を見ることも、その声を聴くことも、その匂いを嗅ぐことも、その味を確かめることも、それを触ることも出来はしない。しかし確実に『こころ』というものはこの世に存在する。
脳が生み出す『こころ』というものの存在に思いを致すとき、その偉大さ、崇高さ、意味、重要性に圧倒、驚愕、感動するとともに、ただただどこまでも深く深く考えずにはいられない。
たまたまツイッターで普段気になっていた事柄のひとつを英文・日本文で綴ったのがきっかけで、そのことに気付かされた。
気付きの元の文章です。




Never can man see one of the most precious things. That’s right. It’s “heart.” 
Never can we see other people’s hearts,only we can imagine their hearts.


とても大切だけど決して私たちが見ることが出来ないものがある。そう、それは『こころ』だ。
我々は他人の心の中を見ることが出来ない。ただ相手の心の内を想像してみるだけだ。




2012年2月16日木曜日


英語を読む快適なスピードとは


最近頓に疑問に思うことがある。
それは学校現場もしくは幾つかの英語教育番組で、英語指導者が英語学習者に向けて、教科書その他テキスト英文を読む際、実際の場面ではありえないくらい超スロースピードで読むことがよくあることだ。
もちろんいま流行りの速読・超速読が、読むスピードとしては最適だなどと言いたいわけではない。どちらかというと初心者への速すぎる英文読みは反対だ。
では何を言いたいのか。
それは、英語の初心者に対してあたかもそれが当然であるかのごとく、あまりにもゆっくりとしたスピードで英文を読んで聴かせることのマイナス点だ。
超スロースピードの英文読みは逆効果だと思う。
わたしたちが普段、母語である日本語で、新聞や書物を読む際のことを考えてみてほしい。
あるまとまった内容の文章を読もうとする場合、ある一定の心地よいと感じるスピードで読むことで我々は理解の程度が深まっているのではないだろうか。
丁寧にと文章を文節ごとに区切り、不自然な間を開け、敢えてゆっくりスピードで読んでみると、円滑さが損なわれるので、英文を意味のあるひとまとまりとしてセットで理解することが出来ない。
自然に、流れるように塊として一気に自分のものとすることを妨げてしまう。
少なくとも私の場合は、不自然な読み方で、超スローで、ぎこちなく読まれるとかえって理解出来ない。
人によって快適と感じる読むスピードは幾分異なるだろうが、どうも脳が理解するのに快適だと感じる速度には一定の速さの幅があるような気がしてならない。
それは速過ぎても遅過ぎても効果が減じるように思う。
心地よい適度なスピードを原則としつつも、時折、目的別に、発音に注意しながら丁寧にゆっくりと読んでみたり、長文を短時間で読もうと速く読んでみたりすることは良い方法だと思う。
しかし日本人の多くの英語指導者が学習初心者に向けて読むスピードは全般的に不自然に遅すぎる嫌いがあると懸念する。
読むスピードが遅ければ、より深く理解できるというなら、それもまたひとつの手なのだと思うけれども、そうではないはずだ。
読むスピードがあまりに遅いと、かえって脳が自然に理解するのを妨げる。
欧米の幼稚園・小学生の子供たちが母語である英語を学習する際に、指導する教師があまりにもゆっくりとしたスピードで英語を喋っているとは考えられない。
きっと学年に合わせて、易しい単語を多用しながら、快適と感じるごく自然なスピードで大量の文章をシャワーのように浴びせているはずだ。
だとすると日本人の英語初心者に向けた英語指導者の文章読みスピードも現実場面に添った会話スピードに合わせた方が良いと思う。
実際に、英語のネイティブスピーカーを目の前にして会話するときのスピードで、聴く訓練をしたり、喋る訓練をしたほうが効果がずっと高い。
ディズニーアニメはじめ各種洋画だって、非現実的に喋るスピードが超スローな会話なんて聞いたことがない。
たまに英語学習者から英語指導者に対して、喋るスピードが速すぎて理解できないという意見・発言も出るかもしれない。
だが実際は、多くの場合、英語学習者の語彙力や読解力、文法力等の欠如が主な原因だったり、英語指導者の実力不足もしくはその辺の認識不足が原因だったりする気がする。


2012年2月7日火曜日



谷川俊太郎さんの著書「詩の本」(集英社)の中の「ただ生きる」という詩は、わたしたちが普段何気なく行っているさまざまな動作や状態が、実はどれほど物凄いことで、ありがたいことであるのか、当たり前なんかでは決してなく感謝に値することなのかについて、見事なまでに凝縮された形で表現されています。
人間の身体と心は、実は極めて危うい均衡で支えられ、ほんの些細なことでバランスを崩してしまう危ういものである。
健康は失って始めてそのありがたみ、その貴重さに気付く性質のもので、だからこそ、健康な人も健康を害してしまった人も、健康であることの重要さと「生きる」ということの意味をしっかりと考えましょうねとこの詩は訴えているように私には思える。



ただ生きる






立てなくなってはじめて学ぶ


立つことの複雑さ


立つことの不思議


重力のむごさ優しさ






支えられてはじめて気づく


一歩の重み 一歩の喜び


支えてくれる手のぬくみ


独りではないと知る安らぎ






ただ立っていること


ふるさとの星の上に


ただ歩くこと 陽をあびて


ただ生きること 今日を






ひとつのいのちであること


人とともに 鳥やけものとともに


草木とともに 星々とともに


息深く 息長く






ただいのちであることの


そのありがたさに へりくだる




「詩の本」(谷川俊太郎 集英社)より引用させていただきました。



童謡(4)

北原白秋の童謡です。


山のあなたを




山のあなたを


見わたせば、


あの山恋し、


里こいし。




山のあなたの


青空よ、


どうして入日が


遠ござる。




山のあなたの


ふるさとよ、


あの空恋し、


母こいし。



「名作童謡 北原白秋100選」(編著 上田信道 春陽堂)より引用。 


北原白秋が、「山のあなたを」という童謡の中でイメージした「里」は、白秋の母の実家の山間の里であるかもしれないと述べられている。
北原白秋は、「わが生い立ち」の中で、わたしの第二の故郷は肥後の南関だと記してある。
現在の熊本県玉名郡南関町だそうだ。
わたしは、父の両親とも、母の両親とも残念ながら逢ったことがない。
早くに亡くなっていたり、事情があって、逢えなかったりで、4人とも写真でしか見たことがない。
子供の頃、直接「おじいちゃん、おばあちゃん」と言って甘えたこともなければ、孫を愛おしげに眺める祖父母の表情を眺めたこともない。
だから祖父母のいる家庭を羨ましいと感じることがたまにある。もしかしたら、おじいちゃんコンプレックス、おばあちゃんコンプレックスがあるのかもしれない。
父の生まれた故郷、母の生まれた故郷に行って、その光景を確と目に焼き付け、在りし日の祖父母について聞いてみたいのだが・・・。



谷川俊太郎さんの著書「詩の本」(集英社)の中の「木を植える」
は人生について、運命について、人間という生き物について、いろいろと考えさせてくれる、大好きな詩の一つです。木を植えるとは、一体どういうことなのだろうと改めて深く考えさせられます。良くも悪くも極めて個性的で、私同様に感情表現が苦手な父は、昔住んでいた家においても、いま住んでいる家においても、季節毎に実る野菜・果物をあれやこれや植えて出来た作物を手に誇らしそうな顔をしてみたり、生育に何年も要する木を突如植えてみたりして楽しんでいるのもそういうことだったのか。意識しようが、意識しまいが、将来のあれこれを思い描いて、自然と対話し、現在の自分と対話し、過去と、未来と、未来を生きる人々と声なき声で静かに対話していたんだ。

谷川俊太郎先生の詩「木を植える」を引用させていただきます。


木を植える

木を植える

それはつぐなうこと

私たちが根こそぎにしたものを


木を植える

それは夢見ること

子どもたちのすこやかな明日を


木を植える

それは祈ること

いのちに宿る太古からの精霊に


木を植える

それは歌うこと

花と実りをもたらす風とともに


木を植える

それは耳をすますこと

よみがえる自然の無言の教えに


木を植える

それは智恵それは力

生きとし生けるものをむすぶ


童謡(3)

北原白秋の童謡です。


アメフリ


アメアメ フレフレ、


カアサン ガ


ジャノメ デ オムカイ、 ウレシイナ。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




カケマショ、カバン ヨ カアサンノ


アトカラ ユコユコ カネ ガ ナル。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




アラアラ アノコ ハ ズブヌレダ、


ヤナギ ノ ネカタ デ ナイテイル。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




カアサン、ボクノヨ カシマショカ。


キミキミ、コノカサ サシタマエ。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。




ボクナラ イインダ、カアサンノ


オオキナ ジャノメ ニ ハイッテク。


 ピッチピッチ チャップチャップ


 ランランラン。


「名作童謡 北原白秋100選」(編著 上田信道 春陽堂)より引用。 


母親の迎えを楽しみに、心待ちにして、雨降りを純粋に素直に

楽しめる子どもの頃の感覚って素晴らしいなあ。

雨が降ると、「ああ~、鬱陶しいな~。髪が濡れるなあ。服が

濡れるなあ。眼鏡が曇るなあ。傘が邪魔だなあ。」と考えがちな

大人になった自分の感覚が時に恥ずかしい。