2012年7月26日木曜日

神経過敏の性質


小林秀雄氏が、自分を知るとは過去の自分を思い返す(思い出す)ことだと仰っている。僕は幼少期より、寒冷刺激、視覚刺激、聴覚刺激、嗅覚刺激、味覚刺激、触覚刺激、痛覚刺激、何れも平均より敏感な性質で、繊細な神経の持ち主だった。

小学生の頃は、学校の冷たいプールが大層苦手で嫌いだった。放課後皆が競ってプールで泳いでいる頃、運動したいけど僕はプールだけは嫌だと、小学校のグラウンドを50周以上走ったこともある。小さな音にも割と敏感で、父が帰宅時、何十メートルも先の橋を車で渡る音も瞬時に気が付いた。

もっとも、父が帰宅の際に、タイミング悪く、僕が嬉しそうにテレビを見ていると、父の機嫌が悪くなり、癇癪を起されたり、嫌なことを言われたり、怒鳴られたりするのを回避するためという自己防衛上の理由もあるだろうから、純粋に聴覚が優れていたかどうかは今もってよく分からない。

味覚刺激に関して言うと、シナモン粉末を食パンに振り掛けて食べようとすると、20年前に親友と喫茶店で、飲んだシナモンコーヒー、そして固形シナモンを誤って齧ったときの何とも言えない味覚を不思議なくらい明確に思い出すことが出来た。友達と交わした会話の記憶とともに。

小学生の時、悪ガキの僕は、家で勉強なんて一切しないで、自然を相手に、野山で駆けずり回ってばかりいた。ある時、山で遊んでいると、空気の匂いが一瞬変わったと感じる瞬間があった。しばらくその空気の匂いを嗅ぎながら、これはその時、好意を抱いていた同級生の女の子の傍に行くと感じる匂いだと気付いた。

触覚刺激に関して言うと、幼少期、たまに風邪でお腹を壊すと小児科で医師に触診された。大腸の回盲部あたりを押されたと記憶するが、そのとき『お腹の力を抜いて』と繰り返し言われるのだが、押されると、くすぐったくてどうしても腹筋に力が入ってしまう。医師も何度か試した後、断念した顔で『もういいですよ』と仰る。別にふざけたつもりはないのだが・・・。苦い記憶としていまも残る。

有り難い事に身体を壊すことは滅多にないのだが、大学生の時、初めてインフルエンザで咽喉が炎症したときの痛みは凄まじかった。社会人になって、一度職場の皆で名古屋コーチンを食べた時、サルモネラ菌か何かで何人もが食中毒になった。

僕は、隣近所の仕事仲間が生ものだから入りませんと、どうぞどうぞと薦められ譲られる形で、生の肝や心臓をたらふく食べたことも原因ではあるが、食中毒で、急性腸炎を起こし、絶食期間数日を要してしまう、死ぬかというほどの腸内激痛を味わった。

一度、健康診断で、医師に異常がないことを告げられた後、『何か気になることがありますか?』と聞かれた。気付けば今はその症状はなくなったが、その時は、『いつもではないですが、食後に歯を磨くとき、歯磨き粉に咽頭部が反応しておえっと吐きそうになり、堪えることがあるのです。』と告げた。

すると医師は事もなげに、『そうですか。心配はないです。神経が過敏なだけです。年齢を取ると大抵鈍くなってきますよ。私くらいの年齢になると間違えて歯磨きを少しくらい飲んでも平気になりますから。』と冗談めかして言われた。慰められたような、馬鹿にされたような、妙に恥ずかしいような何とも言えない気持ちになった。

2012年3月22日木曜日

『生きる』

一昨日、新聞でアスリート中西麻耶さんのパラリンピックへの熱い想いを綴った記事を読みながら『生きるとは』 『強さとは』 『美しさとは』 『強靭な精神とは』 『強靭な肉体とは』 『勝負とは』 『五輪とは』 『身体を張った生き方とは』 『かっこいいとは』等いろいろのことを感じ、考えさせられました。
そこで、声援の気持ちを込めて、新聞の写真、記事を思い出しながら、詩を作りました。


『生きる』



生きる

それはやりたいことを見つけること

生きる

それは夢の実現に向けて突っ走ること

生きる

それは夢を実現するために命懸けで闘うこと

生きる

それは心折れそうになっても自分を信じ抜くこと

生きる

それはあなたを応援してくれる人を“こころの目”で見ること

 

2012年3月21日水曜日



教育改革を実行するために必要なこと


(1)  文科省や教育委員会が手放しで高い評価を与える校長、教頭、教諭のありようが、果たして本当に我々国民にとって良き管理職なり教諭の像足り得るのか真剣に考える必要がある。お上への絶対服従、事勿れ主義、横並び、無責任主義、慣例主義いずれも国民の利とはならない。


(2)  だが残念ながら、公的学校教育現場はそのような問題が何ら解決されないまま放置されているのが現状だ。校長、教頭にとっても教諭にとっても、現状では制度の欠陥を指摘し、不公平を是正し、本当に国民のために必要な教育改革を実行しようと取り組んでも評価されるシステムにはなっていない。


(3)  悪しき制度の問題点を見つけ出し、改善・改革を求めて行動を開始すると必ず足を引っ張り、邪魔をする人が現れる。なにしろ悪しき制度、悪しき規則に守られている特権的な階級の人々がいるからだ。


(4)  欠陥制度を維持することで出世、昇進を期待できたり、維持できる人たちは血眼になって現行のシステムを維持しようとする。制度改善、不公平是正へとは並大抵のことでは向かわない。


(5)  既に多くの公的学校現場は手の施しようがないほど制度の欠陥を抱えている。既存のヒエラルキーを維持するため不公平な制度には容易に手をつけようとしない。

能力主義・実力主義を徹底的に導入すると正規・非正規入り混じる学校現場では混乱し収拾がつかなくなるので不公平ではあっても公平な競争は行われない。


(6)  現状の制度を維持し、管理職や教育委員会に歯向かうことなく絶対服従し、教員を雁字搦めに管理するためだけの無駄な事務手続きや各種規則が多数存在する。意味のない制度や効果の薄いやり方、見直しが必要な山のような事柄も過去の慣例先例に従っているのだから全く問題なしの一言で片づけられてしまう。


(7)  これでは教育に夢や希望を持って学校現場に飛び込んできた多くの教師は失望して当然だ。だって生徒に少しでも向き合いたいのに、時間的にも物理的にも精神的にも制縛され、管理職のほうに向き合うことばかりを強制されるのだから。


(8)  これでは公立学校が生徒に対して良い教育ができるはずがない。教師が生徒に全然関係ないところで既にストレス塗れなのだから。いま必要なのは、勇気をもって既存の教育制度の悪しき問題を次々と列挙し、積極果敢に改善・改革していく教師とそういう教師を正当に評価する制度だ。


(9)  自己の保身にばかり目をやり、現在の制度の問題点を気付かないふりして解決しようとしない管理職や教師はもう要らない。学校管理職、学校教職員にはたとえつらくても膿となった山のような問題点を片端から俎上に挙げ、徹底的に改革して悪しき制度を改め、不公平を是正していくことが緊急の課題である。


(10)公的教育現場の各種問題点の根は深いし、闇も深い。でも教育は日本の再生にとって極めて重要な課題なので誰かがそれに手を付けなくてはならない。個々の教師の問題もさることながらそれ以上に根本的な制度の欠陥を正す必要がある。


(11)文科省、教育委員会、学校のみに自浄能力、改善能力を求めても抜本的な教育改革を果たすことは限りなく不可能だと思う。まずは国民ひとりひとりが学校教育現場の置かれた現状、数々の悪しき規則や制度の問題に気付くこと、そして変革への圧力を加えていくことが真に教育改革を進めていくための強力な第一歩となると思う。


2012年3月17日土曜日


『死』の恐怖とは


(1)  最近頓に思うことがある。一人一人の人間にとって『死』を迎えることの恐怖っていったい何なのであろうと。『おぎゃあ』と生まれた瞬間から人は『死』へ向かう階段を一歩一歩確実に進んでいく。皆が『死』の『carrier』だと言える。

(2)  だから死そのものは生の延長線上にある現象に過ぎない。そう考えると本来『死』は恐れるべき対象なのかどうかもよくわからない。早晩誰もが『死』を迎える。

(3)  それでもやっぱり『死』は怖い。何故だろう?ひとつは『死』はいま生きている人なら誰も経験したことがない黄泉の世界であるから。そして老いにせよ、病にせよ『生』から『死』へと続くその過程がきっと塗炭の苦しみを伴うであろうから。

(4)  実は死んでしまってから後は本人はつらくないはず。だって当の本人はもうこの世に存在していないのだから。つらい思いをするのは家族や友達、親戚ということになる。

(5)  死んだあと、人間の『魂』がどうなるのかは私にも分からない。死後の世界は、ひとりひとり考え方が違っていいのだと思う。押しつけや強制がないことが保証されれば・・。だから一旦ここでは考えないことにする。

(6)  話を戻して『死』の何が怖いのかを真剣に考えてみた。そうしたらこの世から自分が死んで消滅してしまうことの恐怖よりも、死ぬことによって大切な人と二度とこの世で会えなくなることの恐怖ではなかろうかと思い至った。

(7)  妻だったり親だったり友達だったり・・。人によってその対象は異なってくる。子ども、祖父母、恋人・・等。

(8)  自分にとって大切な人間が、暗い夜小さな部屋で一日の労働を終え、炬燵や布団で静かに寝ている姿、その表情を見たとき私ははっとそのことに気付き、急に怖くなった。

(9)  親であれ、配偶者であれ、友達や恋人子供であれ、縁あって奇跡的にこの世で親しく過ごした人と二度と会えなくなることは心が引き裂かれるほどつらい。だから『死』は怖いのだと考えた。

2012年3月14日水曜日


国会質疑を見て思ったこと


(1)  先日昼飯を取りながら珍しくTVをつけた。国会質疑中だった。小川敏夫法相が競走馬の件で自民党の世耕弘成氏に質問されていた。素人でも仕事に影響することは想像がつく。趣味の一言で躱そうとする法務大臣にもこの国難にそのような質疑をする野党議員の感覚にも失望した。即刻TVOFFに。



(2)  同時にこうも感じた。選挙で選ばれた国民の代表であるさまざまな議員がその委員会には存在するにも関わらず、質疑をする予め決まったメンバー以外は、ただ座って、意見をすることも出来ない。これでは退屈だし、真に有益な議論が出来るとは思えない。



(3)  英国の議会その他どこでもいいから参考になるものは参考にして、また国会議員自らが考えて質疑の在り方を変えればいい。形式を立派に整えることに力点を置くのではなく、議員各々が緊張感を持って生き生きと参加する中身のある議論や質疑を展開する委員会の場にしてほしい。



(4)  質問があらかじめ提出されていなくても質疑応答・議論が成立して欲しいし、答弁も官僚たちが書いたものをそのまま読むのはもうやめたほうがいいと思う。官僚の知恵と知識を参考にした上で議員一人一人が猛勉強し自分の言葉で答弁書を作成し、答弁すべきだ。



(5)  中心となる質疑応答者がいてもいい。だが途中から委員会にいる議員全てがその議論に加わり(挙手等)積極的に議論に加わるべきだ。そうすると議論の中身がより発展していく。国政についてよく勉強し、深く考えている議員はアピールの場を得られるし、国民は次の選挙の議員を選ぶ材料が得られる。



(6)  質疑応答する2人を除いて、多くの議員の豊かな才能、貴重な時間・・等が無駄になっていると思った。政治家がいい仕事をしなければこの国は良くはならないのだから。この国を今より良くしたいと熱く政治家になった議員が、国会は退屈で十分機能しない場所だと思わないように改善することが肝要。



(7)  あといつも思うんだけど国会議事堂の建物も椅子も本来あれほど立派なものである必要はないと思う。建物、部屋、机、椅子・・あまりにも立派であることと、議論の中身が濃厚であることは別の問題だから。国会議員に選ばれた議員が、自分は偉いだとか特別な人だとか勘違いしてもいけないし・・・。



(8)  警備面さえ十分保つことが出来れば、国会は本来、議員さんにとっても国民にとっても近寄りがたい場所であるのはふさわしくない。国会議員になって仕事をしたいと望む多くの人は、議論の中身が重要で、頑丈堅固な立派な建物はどうでもいいと感じているのであろうから。要は仕事に適した形がいい。



この地球は誰のもの・・?


(1)311の原発事故がきっかけで、この『地球』は誰のもの・・?と考え始めた。文明の発達、進化、繁栄はとてもすばらしいことだと思う。でも原発が是か非かは各々皆が真剣に考えなければならない。なぜならひとたび事故が発生すると取り返しがつかないほどのダメージを食らうからだ。



(2)いつか『地球』が滅びることは確かだ。だが出来得るならば核爆発や原発が原因では滅ぼしたくない。『地球』は『人間』だけのものではないからだ。『地球』は、森、空、海、大地・・と言った『自然』と動物や植物と言った『各種生物』から成り立っている。



(3)ここまで進化を遂げてきた『人間』は『他の生物』と比較してみても確かに凄いとは思う。しかし、だからと言って『地球』の運命は『人間』が自由勝手気ままに決めていいわけではない。『人間』も一生物に過ぎないのだから。『自然』の中で生かしていただいている一存在に過ぎないのだから。



(4)『地球』は、極めて絶妙なバランスで成り立っている。ほんの些細なことで『地球』は生物が住める環境ではなくなってしまう。わたしたちは偶然ともいえる奇跡的な環境で現在生活できているに過ぎないのだ。だからこの『地球』に感謝して、もっともっと謙虚にならなければならないと思う。



(5)原発を維持することが是か非か一握りの政治家、官僚、企業家に頭からその判断を委ねるのではなく、すべての国民で議論をしてその結果最終的に国民の代表者が決断を下していけばいい。


2012年3月9日金曜日


低学年で高校入試問題、大学入試問題に挑戦することの効果と意義


(1)一昨日と昨日実施された、高校入試問題の『英語』と『国語』を解き終えて改めて思った。高校入試問題は受験学年になって取り組み始めるのではなく、中学1年のときから挑戦して解いてみるのが良いと。力が不十分でも解けても解けてなくても入試問題全体を俯瞰して2年後に入試で何が求められているか知れば良い。



(2)科目や単元によってはまったく歯が立たない場合もあるかもしれない。それでも入試の時期までにどんな問題を解く能力が求められているか少なくとも知ることが出来る。私は大学入試問題の『英語』だけは試験本番翌朝に、高校1年時も2年時も真剣に解いた。



(3)大学入試翌日の早朝、学校に出掛ける前に、時間を測って、本番のつもりで問題に取り組んだ。高校1年のときは200点中183点、高校2年のときは187点、高校3年生のときは156点だった。



(4)私たちの学年が大学入試を受験する年から、共通一次テストが廃止され、センター試験へと名称も試験の中身もがらっと変わった。科目によって問題の量や出題形式は大幅に変更した。変化に弱く、柔軟性に弱点のある私は本番では思ったほど英語の得点を獲得出来なかった。もちろんそれも実力のひとつだ。



(5)本番の試験前までは、比較的得意だった英語と数学、社会で全体の得点をアップさせる心積もりでいた。しかし英語も数学も本番では8割程度しか解けず、何年にも渡る過去問を解いた結果から最低でも9割という得点予想は無残にも崩れ去った。大学入試センター試験5科目の合計得点は辛くも800点中646点(自己採点)であった。



(6)大学入試センター試験の英語も数学も社会も、国語や理科と同様、得点面では特に足も引っ張らないかわりに得点源にもならなかった。しかし志望大学の二次試験においては『英語』『世界史』で高得点を挙げてなんとか汚名を挽回することは出来た。



(7)いまこの年齢になって振り返ってみると、まだ学校で未学習の分野があろうと全く気にせず、高校の一年の時から果敢に大学入試問題の『英語』の問題に取り組んだことは、その都度自分の実力を確認し、高校2年時3年時で何を学習すれば良いか確認できたという意味で良かったと思う。



(8)だから反省の意味も込めて、中学1年生2年生の生徒たち、高校1年生2年生の生徒たちにはお勧めしたい。是非低学年のうちから学校で習っていようがまだ習っていまいが、解けようが解けまいが、高校入試、大学入試直後に積極果敢に問題に取り組んでほしい。そうすることによって自分の現在の実力や客観的位置、今後の課題も見えてくる。


2012年3月7日水曜日

人の死の重みと苦しみ

311の東日本大震災時、気仙沼のある父娘がいったん安全な高台に避難しながらもNHKの取材後、父親のみが単独で自宅に戻り行方不明になってしまったという番組を先日見た。なんとか生きていてほしいが津波に襲われ死亡した可能性もある。いったんは高台に父親と逃れることが出来た娘は、父親の行動を止められなかった原因を自分にも向け、責め苦しむ時期が訪れるかもしれない。どうすれば大切な父の命を救えただろうと過去の自分に無理な要求をして精神的に苦しむ日が来るかもしれない。そういう日が来たとしても持ち堪えられるように周囲の人はいまから父親の死は娘の行為(何かすべきことをしなかったこと)が原因ではないのだと何度も何度も言い聞かせてあげてほしい。

2012年2月29日水曜日


いま政治家のなすべきこと


野田佳彦首相は消費増税に突き進んでおられます。国民に税負担を強いる前にどうしても政治家はやるべきことがあるように私には思えます。それは小沢一郎氏が指摘されるように統治機構を根本から変えて無駄をなくすことです。中央集権体制から地域主権体制へ徹底的に変革することです。
 現在、存在する行政の無駄という無駄の問題を解決しようとせずに、歳入が不十分であるという理由で、安易に消費増税を持ち出すのはどうも私には納得がいきません。行政の無駄の徹底的な排除が先です。
多くの日本人は、家計の収入が減ると、衣食住その他すべての面で、否が応でも徹底的な無駄の排除に取り組まざるを得ません。つらくても徹底的に無駄という無駄をなくすことから始めます。
  同様に国家だって危難にあるとき、まず目に見える無駄という無駄を徹底的に排除することから取り組むのは当然のことだと思う。行政の二重三重の無駄をこのまま維持させるために消費税を上げることを多くの国民は許可しないと思う。
政治家はまず全力で行政の無駄の排除に取り組んで欲しい。無駄排除のための統治機構の抜本的改革に取り組んでほしい。それが多くの国民の希望だと私は思う。


2012年2月25日土曜日

大学のガラパゴス化


本日、茂木健一郎先生が「大学のガラパゴス化」についての所見をブログ『茂木健一郎 クオリア日記』の中で公開され、多くの読者にコメントをリクエストされていました。そこで私も恥ずかしながら、茂木先生の文章を何度か読んだ上で、自分の意見をまとめてみました。


私は19年前に大学を卒業したのだが、どうも日本では、中学・高校と比較して、大学の構内に、教育の最高機関で学術研究のために真剣に教えを請い、授けるという緊張感、空気が薄い気がする。それは、難関大学入試合格まで必死に学習してきた新入生にも、大学生活に徐々に慣れてきた上級生にも言えるように思う。実は、教えを授ける大学の先生方の中にもそういったなんとなくぬるい空気はあったように思う。高校までと比べ、キャンパス内には、教えを受ける側にも教えを授ける側にも、うまく言葉で表現できないが、本来学びの場に必要な望ましい緊張感が欠如していたと思う。もちろんそんな中でも真面目に学習に取り組んでいた生徒もいたし、茂木先生のように受講者を夢中にさせてくれる講義をして下さる教授や准教授、講師や非常勤講師の先生もいらっしゃった。ただ大学構内を流れる全体の空気が、そこまで真剣になって学習しなくても、入学さえすれば、卒業はそれほど難しくないですよと言う、日本でだけ通用する、独特なぬるい空気が流れていた。ごくたまに国内の他大学を覗いてもやはりその空気は流れていた。少なくとも私にはそう映った。当時、社会(就職先となる多くの企業)が我武者羅になって勉学に励む学生を文系の生徒たちに必ずしも求めていなかったという事情もあるのかもしれない。大学入試の在り方や大学教育の在り方(早期に始まりしばしば長期に及ぶ就職活動も含む)に真剣に手を付けてこなかった過去のつけが今まわってきているのだと思う。


2012年2月23日木曜日

インストラクターの人気の秘密


一昨昨日、久方ぶりにフィットネスクラブのあるコーチのプログラムレッスン(プールレッスン)に参加させてもらった。肉離れする前(18ヶ月前)と同様、女性インストラクターの人気は抜群に高く定員いっぱいの満員御礼だった。(彼女のレッスンは、スタジオレッスン、プールレッスンともに集客力が人並外れて高く、しばしば定員オーバーで参加出来ない会員が現れる)相変わらずレッスンのperformancehighだった。小生は右ふくらはぎの状態がまだ不十分なので、コーチの許可を得たうえで、両足固定して上半身のみの運動をした。通常、脚を使えずに運動量が激減すると、運動に集中・没頭出来ないので、レッスン満足度、充実度はうんと減る。周りが盛り上がっていても運動しない分こちらの頭は冷静なので周囲の熱気とのギャップで白けてしまうこともある。その点、彼女のレッスンは、老若男女を問わず、多くの会員さんが定員に達する前に参加資格を得ようと競うだけあって、小生の汗も碌にかけない上半身のみの運動でもありがたいことに満喫することが出来た。なぜこれほど多くの会員さんが彼女のレッスンに我先にと駆けつけるのだろうか。人気の秘密は何なのだろうか。
私なりに分析してみた。

1つ目は、スタジオプログラムにせよ、プールプログラムにせよ、パフォーマンスの高さだ。限られた時間を内容面で充実させ、皆に楽しんでもらおうと事前にプログラムを研究し尽くしている。レッスン内容から十分な事前準備と心の余裕(自信)を持って臨んでいることが伝わってくる。

2つ目は、会員さんの顔ぶれや動き、様子に合わせて、臨機応変・柔軟にレッスン内容を咄嗟に組み替えている点だ。

3つ目は、彼女自身がダンスや身体を動かすことが大好きであり、傍から見てもそのことが自然に伝わってくる点が挙げられる。

4つ目は、会員さんとの付かず離れずの快適・適度の距離だ。

5つ目。これは何より大事な人気の秘訣と思われるのだが、レッスン参加者が大勢いるにも関わらず、どうも彼女はひとりひとりの会員さんが『見えている』ということである。
レッスン中の会員さんの表情や身体の動きから、参加者ひとりひとりの満足度を冷静に鋭い感性で感知しているのだ。

6つ目は、個々のプログラムレッスンは、いろいろ細かい制約や規則があるのであろうが、彼女は、規則に必要以上に縛られることなく、規則は本来何のためにあるのかを理解している点だ。一番大切なことはプログラムの規則に捕われることではない。
自分の頭で状況を瞬時に分析・判断して、顧客の顔ぶれを見ながら、顧客満足を最優先にして、独自の判断で、レッスン内容を微調整・変更する柔軟さと行動力だ。


どんな仕事でもある程度共通して言えることであろうが、決められた規則通りに動くということは実は簡単で楽ちんだったりする。
想定外の各種事態へのインストラクターの咄嗟の対応で、実はそのインストラクターが普段どれだけ舞踊等を研究しているか、努力鍛錬しているか、舞踊の適性が高いか、先天的な素質があるか、才能が高いかが現れたりする。
インストラクターが考えた振付けが次にどのように展開していくかは、流れを見ればある程度は予想が付く。
けれども、会員の『こころ』が見えている賢明なインストラクターは、意外なところで変化をつけて動きを変えたり、敢えて動きを変えなかったりして、こちらの予想通りには動いてくれない。
次にインストラクターがどう動くのか半分は予想が付くけれども、残りの半分は予想が付かない。
油断していると、一人だけ動きに取り残されてしまう。だから没頭する。
尊敬する茂木健一郎先生がよく指摘される『偶有性』だ。
そのような偶有性が存在するとき、我々はどきどきわくわくする。
小生の場合、そのような時、「今この瞬間生きている」と実感する。
偶然その時その場に居合わせた会員とインストラクターとで紡ぎ出す、一回限りの内容・パフォーマンスだから、我々はぞくぞくする。
以上のような理由で、私が通う某フィットネスクラブの、某インストラクターは、会員さんに高い支持を得、高い人気があるのだろうと考えるに至った。


2012年2月21日火曜日

下山の思想


先月24日に、五木寛之先生の著書「下山の思想」を読み終えて、ツイッターにてつぶやいた文章をブログ上でも載せておきます。


『五木寛之先生の新著「下山の思想」(幻冬舎新書)を読了した。下山するという行為は、マイナスでもあきらめでもなく、次に登山するために必要不可欠な行為で、極めて前向きな過程なのだという思想に強く納得した。山登りは、山頂まで登ってそのあと安全無事に山麓まで戻ってきて初めて完了ですからね。』


2012年2月20日月曜日


映画「Time」を見た感想


昨日、上映中の「Time」を鑑賞した。個人個人の所有する命の残り時間を、物と交換したり、人に分け与えたり、人に恵んでもらったりする発想に新鮮さを感じ、時間の持つ意味と価値を深く考えさせられた。一部の特権的な富裕層が長く生き存えるため、多数の貧困層の命の残余時間を搾取・収奪する構図は、不条理かつ不平等な側面を持つ実社会の姿を見ているようで恐ろしかった。監督・脚本家は、現実社会の制度の欠陥、富の分配の不公平、既成勢力が守ろうとする秩序の矛盾を訴えたかったのであろう。格差社会の問題の本質は、ひとりひとりの能力・実力といったファクターを無視して、所属組織や肩書き・地位に不健全なまでの価値を置き、真に公平な競争が行われていないことだと思う。


2012年2月19日日曜日

“My inner thoughts”  『深く思うこと』


言われると当たり前のことではあるけれど、どうしても気になって仕方ない、現在わたしの心を大きく占めているテーマがある。それは『こころ』の持つ特徴、意味、可能性、由来、行先だ。『こころ』はその形を見ることも、その声を聴くことも、その匂いを嗅ぐことも、その味を確かめることも、それを触ることも出来はしない。しかし確実に『こころ』というものはこの世に存在する。
脳が生み出す『こころ』というものの存在に思いを致すとき、その偉大さ、崇高さ、意味、重要性に圧倒、驚愕、感動するとともに、ただただどこまでも深く深く考えずにはいられない。
たまたまツイッターで普段気になっていた事柄のひとつを英文・日本文で綴ったのがきっかけで、そのことに気付かされた。
気付きの元の文章です。




Never can man see one of the most precious things. That’s right. It’s “heart.” 
Never can we see other people’s hearts,only we can imagine their hearts.


とても大切だけど決して私たちが見ることが出来ないものがある。そう、それは『こころ』だ。
我々は他人の心の中を見ることが出来ない。ただ相手の心の内を想像してみるだけだ。




2012年2月16日木曜日


英語を読む快適なスピードとは


最近頓に疑問に思うことがある。
それは学校現場もしくは幾つかの英語教育番組で、英語指導者が英語学習者に向けて、教科書その他テキスト英文を読む際、実際の場面ではありえないくらい超スロースピードで読むことがよくあることだ。
もちろんいま流行りの速読・超速読が、読むスピードとしては最適だなどと言いたいわけではない。どちらかというと初心者への速すぎる英文読みは反対だ。
では何を言いたいのか。
それは、英語の初心者に対してあたかもそれが当然であるかのごとく、あまりにもゆっくりとしたスピードで英文を読んで聴かせることのマイナス点だ。
超スロースピードの英文読みは逆効果だと思う。
わたしたちが普段、母語である日本語で、新聞や書物を読む際のことを考えてみてほしい。
あるまとまった内容の文章を読もうとする場合、ある一定の心地よいと感じるスピードで読むことで我々は理解の程度が深まっているのではないだろうか。
丁寧にと文章を文節ごとに区切り、不自然な間を開け、敢えてゆっくりスピードで読んでみると、円滑さが損なわれるので、英文を意味のあるひとまとまりとしてセットで理解することが出来ない。
自然に、流れるように塊として一気に自分のものとすることを妨げてしまう。
少なくとも私の場合は、不自然な読み方で、超スローで、ぎこちなく読まれるとかえって理解出来ない。
人によって快適と感じる読むスピードは幾分異なるだろうが、どうも脳が理解するのに快適だと感じる速度には一定の速さの幅があるような気がしてならない。
それは速過ぎても遅過ぎても効果が減じるように思う。
心地よい適度なスピードを原則としつつも、時折、目的別に、発音に注意しながら丁寧にゆっくりと読んでみたり、長文を短時間で読もうと速く読んでみたりすることは良い方法だと思う。
しかし日本人の多くの英語指導者が学習初心者に向けて読むスピードは全般的に不自然に遅すぎる嫌いがあると懸念する。
読むスピードが遅ければ、より深く理解できるというなら、それもまたひとつの手なのだと思うけれども、そうではないはずだ。
読むスピードがあまりに遅いと、かえって脳が自然に理解するのを妨げる。
欧米の幼稚園・小学生の子供たちが母語である英語を学習する際に、指導する教師があまりにもゆっくりとしたスピードで英語を喋っているとは考えられない。
きっと学年に合わせて、易しい単語を多用しながら、快適と感じるごく自然なスピードで大量の文章をシャワーのように浴びせているはずだ。
だとすると日本人の英語初心者に向けた英語指導者の文章読みスピードも現実場面に添った会話スピードに合わせた方が良いと思う。
実際に、英語のネイティブスピーカーを目の前にして会話するときのスピードで、聴く訓練をしたり、喋る訓練をしたほうが効果がずっと高い。
ディズニーアニメはじめ各種洋画だって、非現実的に喋るスピードが超スローな会話なんて聞いたことがない。
たまに英語学習者から英語指導者に対して、喋るスピードが速すぎて理解できないという意見・発言も出るかもしれない。
だが実際は、多くの場合、英語学習者の語彙力や読解力、文法力等の欠如が主な原因だったり、英語指導者の実力不足もしくはその辺の認識不足が原因だったりする気がする。