2014年12月1日月曜日

詩を作りました。


『自己との和解』


他人を赦す行為は、自分を赦す行為

自分を赦すとは、罪悪感から自己を解放すること

自己を受け入れ、好きになること

他者を受け入れ、好きになること

己を愛し、他人も愛すること

自分を信じ、他人も信じること

いや、信じられること


2014年10月14日火曜日



『愛すること』


愛すること

それは堪えること


怺えること


自制すること



愛すること


それは諦めること


求めないこと


相手を大事にすること



愛すること


それは心を通わせること


欲望とたたかうこと


自分を大事にすること



愛すること


それは執着心を捨てること


痛みを感じ取ること


赦すこと



愛すること


それは相手の幸せを祈り、願うこと


本能的欲求に行動を支配されないこと


苦しさ、辛さに耐えること



愛すること

それは精神的に自由であること

与えること

信じること


愛すること

それは感謝の気持ちを正直に伝えること

傷を癒す方法が見つからないとき、黙って抱き締めてあげること

共感したら共に涙を流すこと


愛すること

それは素直に詫びること

笑顔とユーモアを忘れないように努めること

この世における自分の役割を自覚し、使命を果たすこと


愛すること

それは魂と魂を触れ合わせること

相手を支配しないこと

孤独と寂しさに耐えること


愛すること

それは心を整えて、恐怖の対象と向き合うこと

闘争も逃走もしないこと

自分の頭で考えて何が正しいのかを判断すること


愛すること

それは威されても、少数派でも、怯むことなく自分の考えを述べ、

己の尊厳を大事にすること

相手の意見が自分と異なっても、その主張に全力で耳を傾けること

想像力を働かせ、心の眼で『みる』こと


愛すること

それは興味の対象関心を他者に、世界に向けること

自分勝手な行動を慎み、思い遣りの心を持つこと

資本主義の負の側面にも目を遣り、人を大事に、人間を第一に考えること


愛すること

それは本能(イド)の声、理性の声、霊性の声に耳を傾けること

孤独、孤絶に堪えること

群れずに、個として他者と繋がること


愛すること

それは一番困難な事、一番避けていることに向き合うこと

挑戦すること

性的衝動の抑制、解放の時宜を間違えないこと


愛すること

それは他者のせいにしたり、自分のせいにしたりせず、定まった運命として受け容れること

煩悩の存在を認めた上で、支配されないこと

呪い(呪詛)の言葉を吐かず、魔法の言葉をかけること


愛すること

それは呪いの言葉の呪縛から、自己を、他者を解き放つこと

愛されることを望まないこと

他者を支配し、あるいは支配される関係を築かないこと



2014年5月22日木曜日

詩を作りました。


『暗黒の海』

真っ暗な無意識


どこまでも深く果てし無い

広大な海(無意識)にひとり乗り出す

何も身に付けずに

全身鰭となってどこまでもどこまでも潜って行く


何が見える?


何が聴こえる?

何が感じられる?

耳を澄まし、目を凝らす

僕の過去が・・・


僕の影が・・・

僕の秘密が・・・

僕に会いに行こう

苦しみの正体を探りに・・・


2014年2月27日木曜日

僕にとって『踊る』って、どんな意味があるのだろうと考えながら、詩を作ってみました。


『踊ること』


踊ることーそれは自分を解放すること
                 
                  心の中を見つめること
                  
                  自然の一部となること
                  
                  気持ちを伝えること
                 
                  自然に身を任せること
                 
                  本能の声に耳を傾けること
                 
                  抑圧を解くこと
                 
                  自己を受け入れること
                 
                  人間について考察すること
                 
                  心を通わせること
                 
                  笑みを交わすこと
                 
                  僕が僕らしくあること
                 
                  僕が僕らしくあり続けること
                 
                  60兆の細胞に身を委ねること
                 
                  心と体をつなげること
                 
                  自分の影を見つめること
                 
                  自分のルーツに思いを致すこと
                 
                  喜びも悲しみも引き受けること
                 
                  素っ裸の心を手に入れること
                 
                  今を生きていると実感すること
                 
                  生きている喜びを爆発させること
                 
                  今この瞬間を掴み取ること
                 
                  心の色を身体で表現すること
                 
                  自分を信じること




2013年8月6日火曜日

最近の僕の心境を詩の形で表現してみました。

  『祈り』

夜の闇が途轍も無く深い。

夜の闇が死ぬほど怖い。

僕の心を抱き締めて!

僕の魂を抱き締めて!

太陽の心で強くしっかりと!

臆病過ぎる僕の心。

いつもびくびく震えている。

目には見えない不安の障壁。

避けることなく飛び込んで!

逃げることなく乗り込んで!

死を覚悟して突入して!

心の声に耳を澄まして!

見えないものを見て!

聞えない音を聴いて!

自然の声に耳を澄まして!

見えていなかったものを見て!

聞えていなかった音を聴いて!

恐怖は己の心が作り出すもの。

危険とは別のもの。

愛と勇気の力で、

不安の障壁を打ち毀して!

2012年12月29日土曜日

偶然と必然

(1)改めて司馬遼太郎氏は凄い人だと思う。自分がクルド難民に生まれていたらどうだったろう、インドネシア人に生まれていたらどうだったろう、在日韓国人に生まれいたらどうだったろうと考えることは、日本人であることに誇りを感じ、日本をこよなく愛することと矛盾しない。

(2)自分が日本人であるという事に必然性を感じるとともに、国や親を己の意志で選択して生まれてきたわけではないという意味で、偶然の要素も感じるからだ。先祖や両親、日本を強く愛しつつも、他の国に生まれたとしたら自分はどうだっただろうと想像してみる事はプラス面はあってもマイナスはない。

2012年12月27日木曜日

司馬遼太郎氏の講演を聴いて思ったこと
 
 
(1)  今朝、他の用事を熟しながら、司馬遼太郎氏の講演CD『司馬遼太郎が語る 私ども人類』を流し聴きしていた。すると、どうしても気になって仕方ない箇所が現れたので、その部分を再生して書き取ってみた。

(2)  氏は言う。『自分がクルド難民に生まれていたらどうだったろう。インドネシア人に生まれていたらどうだったろう。在日韓国人に生まれていたらどうだったろう。知識を総動員しながらトランス状態を生んで、(1分か2分も経つと)その気持ちになる。・・・』

(3)  『・・・彼らの気持ちだけでなくて、社会情勢、社会状態までが目に見えるような感じになってくる。これは私の密かなる娯楽であります。・・・』凄い言葉だと思った。

(4)  この部分を繰り返し聴きながら思考を巡らせた。そして思った。領土問題をめぐり、日中、日韓双方の国民感情に望ましくない変化が現れ始め、関係悪化の兆しが見られる今だからこそ、両国国民は、(司馬先生が実施されていたように)自分がもし〇〇人に生まれていたらどうだったろうと互いに相手国の立場に立って考えてみる余裕が必要だと。

 

2012年12月25日火曜日

大切なものは目には見えない

一昨日、映画『ホビット』を鑑賞した。鑑賞しながら、次のように思った。『大切なものは目には見えない。(心で)感じるものだ。相手の心の痛みをともに感じることの出来る人間は魅力的だ。そしてそういった共感能力を持った上で、勇気を振るい、具体的に行動できる人間は上等中の上等である。』と。

2012年12月8日土曜日

総選挙間近

(1)フィットネスクラブの更衣室で年配の方々が言っていた。「民主党政権には本当にがっかりした。期待だけさせてから・・・」。期待が大きかっただけに失望の度合いも大きいのであろう。僕だって民主党の重要政策におけるマニフェスト違反にはあきれて失望している。しかし同時にこうも考えている。

(2)この光景は初めてではないと。いつか見たことあるぞと。自民党の麻生政権末期に、国民の怒りは頂点に達し、自民党は惨敗し、民主党は圧勝した。当時の自民党政権に対する、国民の不満、怒りが選挙での圧倒的支持(票)の差と言う形で現れ、民主党は候補者が足らないほどに大勝ちした。

(3)そして選挙が終わって多くの国民は悔いた。民主党に不均衡なほど圧倒的に勝たせ過ぎたと。選挙の度ごとに現政権に対する不満から、振り子が反対側に余りにも過剰に振れ過ぎるのはどうも危険だと感じている。

(4)各候補者の政治家としての資質や選挙後の政権枠組みの予想(おそらく選挙情勢を参考にして予想するしかない)、新政権で繰り広げられる政策・・・等々を、総合的に勘案して、一票を投ずることが求められるのだと思う。どのような選挙結果にせよ、国民はその責任を追わなければならないのだから。

2012年11月6日火曜日


アンチ(反対)からオールタナティブ(代案)へ

 

尊敬して止まない茂木健一郎氏が、ツイッター上で力説しているように、アンチ(反対)からオールターナティブ(代案)へ移行する意義(重要さ)、必要性は極めて大きく、その意味するところも深い。社会制度上の様々な問題を論って、ただただ批判のための批判を重ねたところで何ら社会は変わらない。
本気で社会を良い方向に変えたいと望むならば、自分の能力をきちんと信じて、微力でも、不安でも、心細くても、新たな何か(政策であったり、著作であったり、楽曲であったり・・・)を必死になって作り出さなくてはならない。そして賛同者を増やさなくてはならない。


 

2012年7月26日木曜日

神経過敏の性質


小林秀雄氏が、自分を知るとは過去の自分を思い返す(思い出す)ことだと仰っている。僕は幼少期より、寒冷刺激、視覚刺激、聴覚刺激、嗅覚刺激、味覚刺激、触覚刺激、痛覚刺激、何れも平均より敏感な性質で、繊細な神経の持ち主だった。

小学生の頃は、学校の冷たいプールが大層苦手で嫌いだった。放課後皆が競ってプールで泳いでいる頃、運動したいけど僕はプールだけは嫌だと、小学校のグラウンドを50周以上走ったこともある。小さな音にも割と敏感で、父が帰宅時、何十メートルも先の橋を車で渡る音も瞬時に気が付いた。

もっとも、父が帰宅の際に、タイミング悪く、僕が嬉しそうにテレビを見ていると、父の機嫌が悪くなり、癇癪を起されたり、嫌なことを言われたり、怒鳴られたりするのを回避するためという自己防衛上の理由もあるだろうから、純粋に聴覚が優れていたかどうかは今もってよく分からない。

味覚刺激に関して言うと、シナモン粉末を食パンに振り掛けて食べようとすると、20年前に親友と喫茶店で、飲んだシナモンコーヒー、そして固形シナモンを誤って齧ったときの何とも言えない味覚を不思議なくらい明確に思い出すことが出来た。友達と交わした会話の記憶とともに。

小学生の時、悪ガキの僕は、家で勉強なんて一切しないで、自然を相手に、野山で駆けずり回ってばかりいた。ある時、山で遊んでいると、空気の匂いが一瞬変わったと感じる瞬間があった。しばらくその空気の匂いを嗅ぎながら、これはその時、好意を抱いていた同級生の女の子の傍に行くと感じる匂いだと気付いた。

触覚刺激に関して言うと、幼少期、たまに風邪でお腹を壊すと小児科で医師に触診された。大腸の回盲部あたりを押されたと記憶するが、そのとき『お腹の力を抜いて』と繰り返し言われるのだが、押されると、くすぐったくてどうしても腹筋に力が入ってしまう。医師も何度か試した後、断念した顔で『もういいですよ』と仰る。別にふざけたつもりはないのだが・・・。苦い記憶としていまも残る。

有り難い事に身体を壊すことは滅多にないのだが、大学生の時、初めてインフルエンザで咽喉が炎症したときの痛みは凄まじかった。社会人になって、一度職場の皆で名古屋コーチンを食べた時、サルモネラ菌か何かで何人もが食中毒になった。

僕は、隣近所の仕事仲間が生ものだから入りませんと、どうぞどうぞと薦められ譲られる形で、生の肝や心臓をたらふく食べたことも原因ではあるが、食中毒で、急性腸炎を起こし、絶食期間数日を要してしまう、死ぬかというほどの腸内激痛を味わった。

一度、健康診断で、医師に異常がないことを告げられた後、『何か気になることがありますか?』と聞かれた。気付けば今はその症状はなくなったが、その時は、『いつもではないですが、食後に歯を磨くとき、歯磨き粉に咽頭部が反応しておえっと吐きそうになり、堪えることがあるのです。』と告げた。

すると医師は事もなげに、『そうですか。心配はないです。神経が過敏なだけです。年齢を取ると大抵鈍くなってきますよ。私くらいの年齢になると間違えて歯磨きを少しくらい飲んでも平気になりますから。』と冗談めかして言われた。慰められたような、馬鹿にされたような、妙に恥ずかしいような何とも言えない気持ちになった。

2012年3月22日木曜日

『生きる』

一昨日、新聞でアスリート中西麻耶さんのパラリンピックへの熱い想いを綴った記事を読みながら『生きるとは』 『強さとは』 『美しさとは』 『強靭な精神とは』 『強靭な肉体とは』 『勝負とは』 『五輪とは』 『身体を張った生き方とは』 『かっこいいとは』等いろいろのことを感じ、考えさせられました。
そこで、声援の気持ちを込めて、新聞の写真、記事を思い出しながら、詩を作りました。


『生きる』



生きる

それはやりたいことを見つけること

生きる

それは夢の実現に向けて突っ走ること

生きる

それは夢を実現するために命懸けで闘うこと

生きる

それは心折れそうになっても自分を信じ抜くこと

生きる

それはあなたを応援してくれる人を“こころの目”で見ること

 

2012年3月21日水曜日



教育改革を実行するために必要なこと


(1)  文科省や教育委員会が手放しで高い評価を与える校長、教頭、教諭のありようが、果たして本当に我々国民にとって良き管理職なり教諭の像足り得るのか真剣に考える必要がある。お上への絶対服従、事勿れ主義、横並び、無責任主義、慣例主義いずれも国民の利とはならない。


(2)  だが残念ながら、公的学校教育現場はそのような問題が何ら解決されないまま放置されているのが現状だ。校長、教頭にとっても教諭にとっても、現状では制度の欠陥を指摘し、不公平を是正し、本当に国民のために必要な教育改革を実行しようと取り組んでも評価されるシステムにはなっていない。


(3)  悪しき制度の問題点を見つけ出し、改善・改革を求めて行動を開始すると必ず足を引っ張り、邪魔をする人が現れる。なにしろ悪しき制度、悪しき規則に守られている特権的な階級の人々がいるからだ。


(4)  欠陥制度を維持することで出世、昇進を期待できたり、維持できる人たちは血眼になって現行のシステムを維持しようとする。制度改善、不公平是正へとは並大抵のことでは向かわない。


(5)  既に多くの公的学校現場は手の施しようがないほど制度の欠陥を抱えている。既存のヒエラルキーを維持するため不公平な制度には容易に手をつけようとしない。

能力主義・実力主義を徹底的に導入すると正規・非正規入り混じる学校現場では混乱し収拾がつかなくなるので不公平ではあっても公平な競争は行われない。


(6)  現状の制度を維持し、管理職や教育委員会に歯向かうことなく絶対服従し、教員を雁字搦めに管理するためだけの無駄な事務手続きや各種規則が多数存在する。意味のない制度や効果の薄いやり方、見直しが必要な山のような事柄も過去の慣例先例に従っているのだから全く問題なしの一言で片づけられてしまう。


(7)  これでは教育に夢や希望を持って学校現場に飛び込んできた多くの教師は失望して当然だ。だって生徒に少しでも向き合いたいのに、時間的にも物理的にも精神的にも制縛され、管理職のほうに向き合うことばかりを強制されるのだから。


(8)  これでは公立学校が生徒に対して良い教育ができるはずがない。教師が生徒に全然関係ないところで既にストレス塗れなのだから。いま必要なのは、勇気をもって既存の教育制度の悪しき問題を次々と列挙し、積極果敢に改善・改革していく教師とそういう教師を正当に評価する制度だ。


(9)  自己の保身にばかり目をやり、現在の制度の問題点を気付かないふりして解決しようとしない管理職や教師はもう要らない。学校管理職、学校教職員にはたとえつらくても膿となった山のような問題点を片端から俎上に挙げ、徹底的に改革して悪しき制度を改め、不公平を是正していくことが緊急の課題である。


(10)公的教育現場の各種問題点の根は深いし、闇も深い。でも教育は日本の再生にとって極めて重要な課題なので誰かがそれに手を付けなくてはならない。個々の教師の問題もさることながらそれ以上に根本的な制度の欠陥を正す必要がある。


(11)文科省、教育委員会、学校のみに自浄能力、改善能力を求めても抜本的な教育改革を果たすことは限りなく不可能だと思う。まずは国民ひとりひとりが学校教育現場の置かれた現状、数々の悪しき規則や制度の問題に気付くこと、そして変革への圧力を加えていくことが真に教育改革を進めていくための強力な第一歩となると思う。


2012年3月17日土曜日


『死』の恐怖とは


(1)  最近頓に思うことがある。一人一人の人間にとって『死』を迎えることの恐怖っていったい何なのであろうと。『おぎゃあ』と生まれた瞬間から人は『死』へ向かう階段を一歩一歩確実に進んでいく。皆が『死』の『carrier』だと言える。

(2)  だから死そのものは生の延長線上にある現象に過ぎない。そう考えると本来『死』は恐れるべき対象なのかどうかもよくわからない。早晩誰もが『死』を迎える。

(3)  それでもやっぱり『死』は怖い。何故だろう?ひとつは『死』はいま生きている人なら誰も経験したことがない黄泉の世界であるから。そして老いにせよ、病にせよ『生』から『死』へと続くその過程がきっと塗炭の苦しみを伴うであろうから。

(4)  実は死んでしまってから後は本人はつらくないはず。だって当の本人はもうこの世に存在していないのだから。つらい思いをするのは家族や友達、親戚ということになる。

(5)  死んだあと、人間の『魂』がどうなるのかは私にも分からない。死後の世界は、ひとりひとり考え方が違っていいのだと思う。押しつけや強制がないことが保証されれば・・。だから一旦ここでは考えないことにする。

(6)  話を戻して『死』の何が怖いのかを真剣に考えてみた。そうしたらこの世から自分が死んで消滅してしまうことの恐怖よりも、死ぬことによって大切な人と二度とこの世で会えなくなることの恐怖ではなかろうかと思い至った。

(7)  妻だったり親だったり友達だったり・・。人によってその対象は異なってくる。子ども、祖父母、恋人・・等。

(8)  自分にとって大切な人間が、暗い夜小さな部屋で一日の労働を終え、炬燵や布団で静かに寝ている姿、その表情を見たとき私ははっとそのことに気付き、急に怖くなった。

(9)  親であれ、配偶者であれ、友達や恋人子供であれ、縁あって奇跡的にこの世で親しく過ごした人と二度と会えなくなることは心が引き裂かれるほどつらい。だから『死』は怖いのだと考えた。

2012年3月14日水曜日


国会質疑を見て思ったこと


(1)  先日昼飯を取りながら珍しくTVをつけた。国会質疑中だった。小川敏夫法相が競走馬の件で自民党の世耕弘成氏に質問されていた。素人でも仕事に影響することは想像がつく。趣味の一言で躱そうとする法務大臣にもこの国難にそのような質疑をする野党議員の感覚にも失望した。即刻TVOFFに。



(2)  同時にこうも感じた。選挙で選ばれた国民の代表であるさまざまな議員がその委員会には存在するにも関わらず、質疑をする予め決まったメンバー以外は、ただ座って、意見をすることも出来ない。これでは退屈だし、真に有益な議論が出来るとは思えない。



(3)  英国の議会その他どこでもいいから参考になるものは参考にして、また国会議員自らが考えて質疑の在り方を変えればいい。形式を立派に整えることに力点を置くのではなく、議員各々が緊張感を持って生き生きと参加する中身のある議論や質疑を展開する委員会の場にしてほしい。



(4)  質問があらかじめ提出されていなくても質疑応答・議論が成立して欲しいし、答弁も官僚たちが書いたものをそのまま読むのはもうやめたほうがいいと思う。官僚の知恵と知識を参考にした上で議員一人一人が猛勉強し自分の言葉で答弁書を作成し、答弁すべきだ。



(5)  中心となる質疑応答者がいてもいい。だが途中から委員会にいる議員全てがその議論に加わり(挙手等)積極的に議論に加わるべきだ。そうすると議論の中身がより発展していく。国政についてよく勉強し、深く考えている議員はアピールの場を得られるし、国民は次の選挙の議員を選ぶ材料が得られる。



(6)  質疑応答する2人を除いて、多くの議員の豊かな才能、貴重な時間・・等が無駄になっていると思った。政治家がいい仕事をしなければこの国は良くはならないのだから。この国を今より良くしたいと熱く政治家になった議員が、国会は退屈で十分機能しない場所だと思わないように改善することが肝要。



(7)  あといつも思うんだけど国会議事堂の建物も椅子も本来あれほど立派なものである必要はないと思う。建物、部屋、机、椅子・・あまりにも立派であることと、議論の中身が濃厚であることは別の問題だから。国会議員に選ばれた議員が、自分は偉いだとか特別な人だとか勘違いしてもいけないし・・・。



(8)  警備面さえ十分保つことが出来れば、国会は本来、議員さんにとっても国民にとっても近寄りがたい場所であるのはふさわしくない。国会議員になって仕事をしたいと望む多くの人は、議論の中身が重要で、頑丈堅固な立派な建物はどうでもいいと感じているのであろうから。要は仕事に適した形がいい。



この地球は誰のもの・・?


(1)311の原発事故がきっかけで、この『地球』は誰のもの・・?と考え始めた。文明の発達、進化、繁栄はとてもすばらしいことだと思う。でも原発が是か非かは各々皆が真剣に考えなければならない。なぜならひとたび事故が発生すると取り返しがつかないほどのダメージを食らうからだ。



(2)いつか『地球』が滅びることは確かだ。だが出来得るならば核爆発や原発が原因では滅ぼしたくない。『地球』は『人間』だけのものではないからだ。『地球』は、森、空、海、大地・・と言った『自然』と動物や植物と言った『各種生物』から成り立っている。



(3)ここまで進化を遂げてきた『人間』は『他の生物』と比較してみても確かに凄いとは思う。しかし、だからと言って『地球』の運命は『人間』が自由勝手気ままに決めていいわけではない。『人間』も一生物に過ぎないのだから。『自然』の中で生かしていただいている一存在に過ぎないのだから。



(4)『地球』は、極めて絶妙なバランスで成り立っている。ほんの些細なことで『地球』は生物が住める環境ではなくなってしまう。わたしたちは偶然ともいえる奇跡的な環境で現在生活できているに過ぎないのだ。だからこの『地球』に感謝して、もっともっと謙虚にならなければならないと思う。



(5)原発を維持することが是か非か一握りの政治家、官僚、企業家に頭からその判断を委ねるのではなく、すべての国民で議論をしてその結果最終的に国民の代表者が決断を下していけばいい。


2012年3月9日金曜日


低学年で高校入試問題、大学入試問題に挑戦することの効果と意義


(1)一昨日と昨日実施された、高校入試問題の『英語』と『国語』を解き終えて改めて思った。高校入試問題は受験学年になって取り組み始めるのではなく、中学1年のときから挑戦して解いてみるのが良いと。力が不十分でも解けても解けてなくても入試問題全体を俯瞰して2年後に入試で何が求められているか知れば良い。



(2)科目や単元によってはまったく歯が立たない場合もあるかもしれない。それでも入試の時期までにどんな問題を解く能力が求められているか少なくとも知ることが出来る。私は大学入試問題の『英語』だけは試験本番翌朝に、高校1年時も2年時も真剣に解いた。



(3)大学入試翌日の早朝、学校に出掛ける前に、時間を測って、本番のつもりで問題に取り組んだ。高校1年のときは200点中183点、高校2年のときは187点、高校3年生のときは156点だった。



(4)私たちの学年が大学入試を受験する年から、共通一次テストが廃止され、センター試験へと名称も試験の中身もがらっと変わった。科目によって問題の量や出題形式は大幅に変更した。変化に弱く、柔軟性に弱点のある私は本番では思ったほど英語の得点を獲得出来なかった。もちろんそれも実力のひとつだ。



(5)本番の試験前までは、比較的得意だった英語と数学、社会で全体の得点をアップさせる心積もりでいた。しかし英語も数学も本番では8割程度しか解けず、何年にも渡る過去問を解いた結果から最低でも9割という得点予想は無残にも崩れ去った。大学入試センター試験5科目の合計得点は辛くも800点中646点(自己採点)であった。



(6)大学入試センター試験の英語も数学も社会も、国語や理科と同様、得点面では特に足も引っ張らないかわりに得点源にもならなかった。しかし志望大学の二次試験においては『英語』『世界史』で高得点を挙げてなんとか汚名を挽回することは出来た。



(7)いまこの年齢になって振り返ってみると、まだ学校で未学習の分野があろうと全く気にせず、高校の一年の時から果敢に大学入試問題の『英語』の問題に取り組んだことは、その都度自分の実力を確認し、高校2年時3年時で何を学習すれば良いか確認できたという意味で良かったと思う。



(8)だから反省の意味も込めて、中学1年生2年生の生徒たち、高校1年生2年生の生徒たちにはお勧めしたい。是非低学年のうちから学校で習っていようがまだ習っていまいが、解けようが解けまいが、高校入試、大学入試直後に積極果敢に問題に取り組んでほしい。そうすることによって自分の現在の実力や客観的位置、今後の課題も見えてくる。