2012年3月22日木曜日

『生きる』

一昨日、新聞でアスリート中西麻耶さんのパラリンピックへの熱い想いを綴った記事を読みながら『生きるとは』 『強さとは』 『美しさとは』 『強靭な精神とは』 『強靭な肉体とは』 『勝負とは』 『五輪とは』 『身体を張った生き方とは』 『かっこいいとは』等いろいろのことを感じ、考えさせられました。
そこで、声援の気持ちを込めて、新聞の写真、記事を思い出しながら、詩を作りました。


『生きる』



生きる

それはやりたいことを見つけること

生きる

それは夢の実現に向けて突っ走ること

生きる

それは夢を実現するために命懸けで闘うこと

生きる

それは心折れそうになっても自分を信じ抜くこと

生きる

それはあなたを応援してくれる人を“こころの目”で見ること

 

2012年3月21日水曜日



教育改革を実行するために必要なこと


(1)  文科省や教育委員会が手放しで高い評価を与える校長、教頭、教諭のありようが、果たして本当に我々国民にとって良き管理職なり教諭の像足り得るのか真剣に考える必要がある。お上への絶対服従、事勿れ主義、横並び、無責任主義、慣例主義いずれも国民の利とはならない。


(2)  だが残念ながら、公的学校教育現場はそのような問題が何ら解決されないまま放置されているのが現状だ。校長、教頭にとっても教諭にとっても、現状では制度の欠陥を指摘し、不公平を是正し、本当に国民のために必要な教育改革を実行しようと取り組んでも評価されるシステムにはなっていない。


(3)  悪しき制度の問題点を見つけ出し、改善・改革を求めて行動を開始すると必ず足を引っ張り、邪魔をする人が現れる。なにしろ悪しき制度、悪しき規則に守られている特権的な階級の人々がいるからだ。


(4)  欠陥制度を維持することで出世、昇進を期待できたり、維持できる人たちは血眼になって現行のシステムを維持しようとする。制度改善、不公平是正へとは並大抵のことでは向かわない。


(5)  既に多くの公的学校現場は手の施しようがないほど制度の欠陥を抱えている。既存のヒエラルキーを維持するため不公平な制度には容易に手をつけようとしない。

能力主義・実力主義を徹底的に導入すると正規・非正規入り混じる学校現場では混乱し収拾がつかなくなるので不公平ではあっても公平な競争は行われない。


(6)  現状の制度を維持し、管理職や教育委員会に歯向かうことなく絶対服従し、教員を雁字搦めに管理するためだけの無駄な事務手続きや各種規則が多数存在する。意味のない制度や効果の薄いやり方、見直しが必要な山のような事柄も過去の慣例先例に従っているのだから全く問題なしの一言で片づけられてしまう。


(7)  これでは教育に夢や希望を持って学校現場に飛び込んできた多くの教師は失望して当然だ。だって生徒に少しでも向き合いたいのに、時間的にも物理的にも精神的にも制縛され、管理職のほうに向き合うことばかりを強制されるのだから。


(8)  これでは公立学校が生徒に対して良い教育ができるはずがない。教師が生徒に全然関係ないところで既にストレス塗れなのだから。いま必要なのは、勇気をもって既存の教育制度の悪しき問題を次々と列挙し、積極果敢に改善・改革していく教師とそういう教師を正当に評価する制度だ。


(9)  自己の保身にばかり目をやり、現在の制度の問題点を気付かないふりして解決しようとしない管理職や教師はもう要らない。学校管理職、学校教職員にはたとえつらくても膿となった山のような問題点を片端から俎上に挙げ、徹底的に改革して悪しき制度を改め、不公平を是正していくことが緊急の課題である。


(10)公的教育現場の各種問題点の根は深いし、闇も深い。でも教育は日本の再生にとって極めて重要な課題なので誰かがそれに手を付けなくてはならない。個々の教師の問題もさることながらそれ以上に根本的な制度の欠陥を正す必要がある。


(11)文科省、教育委員会、学校のみに自浄能力、改善能力を求めても抜本的な教育改革を果たすことは限りなく不可能だと思う。まずは国民ひとりひとりが学校教育現場の置かれた現状、数々の悪しき規則や制度の問題に気付くこと、そして変革への圧力を加えていくことが真に教育改革を進めていくための強力な第一歩となると思う。


2012年3月17日土曜日


『死』の恐怖とは


(1)  最近頓に思うことがある。一人一人の人間にとって『死』を迎えることの恐怖っていったい何なのであろうと。『おぎゃあ』と生まれた瞬間から人は『死』へ向かう階段を一歩一歩確実に進んでいく。皆が『死』の『carrier』だと言える。

(2)  だから死そのものは生の延長線上にある現象に過ぎない。そう考えると本来『死』は恐れるべき対象なのかどうかもよくわからない。早晩誰もが『死』を迎える。

(3)  それでもやっぱり『死』は怖い。何故だろう?ひとつは『死』はいま生きている人なら誰も経験したことがない黄泉の世界であるから。そして老いにせよ、病にせよ『生』から『死』へと続くその過程がきっと塗炭の苦しみを伴うであろうから。

(4)  実は死んでしまってから後は本人はつらくないはず。だって当の本人はもうこの世に存在していないのだから。つらい思いをするのは家族や友達、親戚ということになる。

(5)  死んだあと、人間の『魂』がどうなるのかは私にも分からない。死後の世界は、ひとりひとり考え方が違っていいのだと思う。押しつけや強制がないことが保証されれば・・。だから一旦ここでは考えないことにする。

(6)  話を戻して『死』の何が怖いのかを真剣に考えてみた。そうしたらこの世から自分が死んで消滅してしまうことの恐怖よりも、死ぬことによって大切な人と二度とこの世で会えなくなることの恐怖ではなかろうかと思い至った。

(7)  妻だったり親だったり友達だったり・・。人によってその対象は異なってくる。子ども、祖父母、恋人・・等。

(8)  自分にとって大切な人間が、暗い夜小さな部屋で一日の労働を終え、炬燵や布団で静かに寝ている姿、その表情を見たとき私ははっとそのことに気付き、急に怖くなった。

(9)  親であれ、配偶者であれ、友達や恋人子供であれ、縁あって奇跡的にこの世で親しく過ごした人と二度と会えなくなることは心が引き裂かれるほどつらい。だから『死』は怖いのだと考えた。

2012年3月14日水曜日


国会質疑を見て思ったこと


(1)  先日昼飯を取りながら珍しくTVをつけた。国会質疑中だった。小川敏夫法相が競走馬の件で自民党の世耕弘成氏に質問されていた。素人でも仕事に影響することは想像がつく。趣味の一言で躱そうとする法務大臣にもこの国難にそのような質疑をする野党議員の感覚にも失望した。即刻TVOFFに。



(2)  同時にこうも感じた。選挙で選ばれた国民の代表であるさまざまな議員がその委員会には存在するにも関わらず、質疑をする予め決まったメンバー以外は、ただ座って、意見をすることも出来ない。これでは退屈だし、真に有益な議論が出来るとは思えない。



(3)  英国の議会その他どこでもいいから参考になるものは参考にして、また国会議員自らが考えて質疑の在り方を変えればいい。形式を立派に整えることに力点を置くのではなく、議員各々が緊張感を持って生き生きと参加する中身のある議論や質疑を展開する委員会の場にしてほしい。



(4)  質問があらかじめ提出されていなくても質疑応答・議論が成立して欲しいし、答弁も官僚たちが書いたものをそのまま読むのはもうやめたほうがいいと思う。官僚の知恵と知識を参考にした上で議員一人一人が猛勉強し自分の言葉で答弁書を作成し、答弁すべきだ。



(5)  中心となる質疑応答者がいてもいい。だが途中から委員会にいる議員全てがその議論に加わり(挙手等)積極的に議論に加わるべきだ。そうすると議論の中身がより発展していく。国政についてよく勉強し、深く考えている議員はアピールの場を得られるし、国民は次の選挙の議員を選ぶ材料が得られる。



(6)  質疑応答する2人を除いて、多くの議員の豊かな才能、貴重な時間・・等が無駄になっていると思った。政治家がいい仕事をしなければこの国は良くはならないのだから。この国を今より良くしたいと熱く政治家になった議員が、国会は退屈で十分機能しない場所だと思わないように改善することが肝要。



(7)  あといつも思うんだけど国会議事堂の建物も椅子も本来あれほど立派なものである必要はないと思う。建物、部屋、机、椅子・・あまりにも立派であることと、議論の中身が濃厚であることは別の問題だから。国会議員に選ばれた議員が、自分は偉いだとか特別な人だとか勘違いしてもいけないし・・・。



(8)  警備面さえ十分保つことが出来れば、国会は本来、議員さんにとっても国民にとっても近寄りがたい場所であるのはふさわしくない。国会議員になって仕事をしたいと望む多くの人は、議論の中身が重要で、頑丈堅固な立派な建物はどうでもいいと感じているのであろうから。要は仕事に適した形がいい。



この地球は誰のもの・・?


(1)311の原発事故がきっかけで、この『地球』は誰のもの・・?と考え始めた。文明の発達、進化、繁栄はとてもすばらしいことだと思う。でも原発が是か非かは各々皆が真剣に考えなければならない。なぜならひとたび事故が発生すると取り返しがつかないほどのダメージを食らうからだ。



(2)いつか『地球』が滅びることは確かだ。だが出来得るならば核爆発や原発が原因では滅ぼしたくない。『地球』は『人間』だけのものではないからだ。『地球』は、森、空、海、大地・・と言った『自然』と動物や植物と言った『各種生物』から成り立っている。



(3)ここまで進化を遂げてきた『人間』は『他の生物』と比較してみても確かに凄いとは思う。しかし、だからと言って『地球』の運命は『人間』が自由勝手気ままに決めていいわけではない。『人間』も一生物に過ぎないのだから。『自然』の中で生かしていただいている一存在に過ぎないのだから。



(4)『地球』は、極めて絶妙なバランスで成り立っている。ほんの些細なことで『地球』は生物が住める環境ではなくなってしまう。わたしたちは偶然ともいえる奇跡的な環境で現在生活できているに過ぎないのだ。だからこの『地球』に感謝して、もっともっと謙虚にならなければならないと思う。



(5)原発を維持することが是か非か一握りの政治家、官僚、企業家に頭からその判断を委ねるのではなく、すべての国民で議論をしてその結果最終的に国民の代表者が決断を下していけばいい。


2012年3月9日金曜日


低学年で高校入試問題、大学入試問題に挑戦することの効果と意義


(1)一昨日と昨日実施された、高校入試問題の『英語』と『国語』を解き終えて改めて思った。高校入試問題は受験学年になって取り組み始めるのではなく、中学1年のときから挑戦して解いてみるのが良いと。力が不十分でも解けても解けてなくても入試問題全体を俯瞰して2年後に入試で何が求められているか知れば良い。



(2)科目や単元によってはまったく歯が立たない場合もあるかもしれない。それでも入試の時期までにどんな問題を解く能力が求められているか少なくとも知ることが出来る。私は大学入試問題の『英語』だけは試験本番翌朝に、高校1年時も2年時も真剣に解いた。



(3)大学入試翌日の早朝、学校に出掛ける前に、時間を測って、本番のつもりで問題に取り組んだ。高校1年のときは200点中183点、高校2年のときは187点、高校3年生のときは156点だった。



(4)私たちの学年が大学入試を受験する年から、共通一次テストが廃止され、センター試験へと名称も試験の中身もがらっと変わった。科目によって問題の量や出題形式は大幅に変更した。変化に弱く、柔軟性に弱点のある私は本番では思ったほど英語の得点を獲得出来なかった。もちろんそれも実力のひとつだ。



(5)本番の試験前までは、比較的得意だった英語と数学、社会で全体の得点をアップさせる心積もりでいた。しかし英語も数学も本番では8割程度しか解けず、何年にも渡る過去問を解いた結果から最低でも9割という得点予想は無残にも崩れ去った。大学入試センター試験5科目の合計得点は辛くも800点中646点(自己採点)であった。



(6)大学入試センター試験の英語も数学も社会も、国語や理科と同様、得点面では特に足も引っ張らないかわりに得点源にもならなかった。しかし志望大学の二次試験においては『英語』『世界史』で高得点を挙げてなんとか汚名を挽回することは出来た。



(7)いまこの年齢になって振り返ってみると、まだ学校で未学習の分野があろうと全く気にせず、高校の一年の時から果敢に大学入試問題の『英語』の問題に取り組んだことは、その都度自分の実力を確認し、高校2年時3年時で何を学習すれば良いか確認できたという意味で良かったと思う。



(8)だから反省の意味も込めて、中学1年生2年生の生徒たち、高校1年生2年生の生徒たちにはお勧めしたい。是非低学年のうちから学校で習っていようがまだ習っていまいが、解けようが解けまいが、高校入試、大学入試直後に積極果敢に問題に取り組んでほしい。そうすることによって自分の現在の実力や客観的位置、今後の課題も見えてくる。


2012年3月7日水曜日

人の死の重みと苦しみ

311の東日本大震災時、気仙沼のある父娘がいったん安全な高台に避難しながらもNHKの取材後、父親のみが単独で自宅に戻り行方不明になってしまったという番組を先日見た。なんとか生きていてほしいが津波に襲われ死亡した可能性もある。いったんは高台に父親と逃れることが出来た娘は、父親の行動を止められなかった原因を自分にも向け、責め苦しむ時期が訪れるかもしれない。どうすれば大切な父の命を救えただろうと過去の自分に無理な要求をして精神的に苦しむ日が来るかもしれない。そういう日が来たとしても持ち堪えられるように周囲の人はいまから父親の死は娘の行為(何かすべきことをしなかったこと)が原因ではないのだと何度も何度も言い聞かせてあげてほしい。